L-Triangle!外伝⑤(前編)
- 2014/09/03
- 20:29
強い者が総てを手に入れ、弱者は食われるのみ……弱肉強食を地で行く、単純かつシビアな世界・地獄。その無法地帯を支配するのは、最強の悪魔であるルシファーその1……略して1だ。彼が住む超高層ビル『赤龍』は、今日も地獄の中央で、有象無象を見下すようにそびえ立っている。
地獄の頂点に君臨する王がこの『赤龍』でどのように過ごしているかを知る者は、ほとんどいない。『赤龍』で1に仕えることを許されたごく少数以外は、摩天楼を羨望の眼差しで眺めるのみだ。
悪魔たちは噂する。彼らの王は、一体どのような暮らしをしているのか。力こそが正義であるこの地獄で、最強の悪魔ルシファーには、手に入らぬものなどない。一地方の領主ですら、民から搾取した富で好き勝手をしているのが現状なのだ。地獄の王ともなれば、その規模は桁違いだろう。この世の贅沢を極め、美女を侍らせ極上の酒に酔いしれる……そんな夢のような日々を送る1の姿を想像し、その座に取って代わりたいと、地獄中の悪魔たちは切に願うのである。
実際のところ、1が秘書ふたりにせっつかれて仕事に追いまくられ、執務机で大量の書類と格闘したり、各地の諍いに頭を悩ませたりして、酒池肉林とは程遠い日常を送っていることを、悪魔たちは知らない。
「ルシファー殿」
背後から声をかけられ、1は立ち止まる。声の主は、1の世界のミカエル……略して1ミカ。大天使だった彼女は、今は1の秘書の一人として、彼の仕事を手伝っている。蒼銀の柔らかい髪と凛々しい眼差しが特徴の彼女だが、今は業務が終わった解放感からか、その表情はいつもよりも穏やかだった。
「これから、帰るところだろう?一緒に行こう」
「おお」
1ミカの申し出を受け入れ、1は彼女と並んで『赤龍』の廊下を歩き出す。二人ともこの『赤龍』が職場兼自宅となっているので、帰宅の際には外に出る必要はないのだ。
「明日、わたくしと貴殿は休みが一緒だな」
「あー、そうだっけか」
「久方ぶりの休みだ。ここは、有効活用せねばなるまい」
「まあ、せっかくだから好きなことしねえとな」
エレベーターに乗り、二人は当たり障りのない会話をする。1や1ミカが住む部屋は最上階に位置するので、到着するにはしばし時間があった。
「というわけで、デートしよう」
「はあっ!?」
1ミカの話に適当に返答していた1は、突然放たれたストレートな誘いに対応できず、間が抜けた声を発した。少し離れたところにいたはずの1ミカは、いつの間にか自分のすぐ隣まで来ている。その距離の近さに、1はなぜか焦りを感じた。
「何でそうなるんだよ」
どぎまぎしながらも、言葉を返す。その反応が気に入らないのか、1ミカはむっとした顔になった。
「何で、とはご挨拶だな。よいか?わたくしが貴殿の元に来てだいぶ経つ」
「それがどうした」
「なのに、わたくしと貴殿の仲はまるで進展しないではないか!これはゆゆしき事態だぞ!?」
拳を握りしめて、1ミカが力説する。1は、エレベーターのドアの上部にある位置表示器に視線を向けた。最上階はまだ遠いうえ、こういう時に限って途中で乗ってくる者もいない。
「そりゃまあ、毎日毎日仕事ばっかだからな」
とりあえずこの密室で二人っきりという状況から逃れようと、1は話題を別の方向へ振ろうと試みる。それが功を奏したか、1ミカは怒りを引っ込めた。
「確かに、地獄の統治というのは、なかなかやりがいがあるし、わたくしは充実した日々を送っている」
「ならいいじゃねえか」
のらりくらりと返事をしつつ、1は再度、エレベーターのドアの方を見る。最上階はすぐそこだ。外に出てしまえば、逃げるなり何なりできる。1ミカのことは決して嫌いではないが、こうも強引に迫られてはその気になれるわけがない。
「よくない!わたくしは貴殿の妻となるために天界を捨てて地獄へ来たのだぞ!?
たまの休みくらい、わたくしにつき合ってくれてもいいではないか!」
しかし、現実は甘くなかった。最上階につくなり、1ミカはエレベーターのドアを閉めてしまったのである。1が反応するより早く、最下層行きのボタンが押され、エレベーターは再び動き出した。
「おまっ……なんつーことを」
「逃がさぬぞ、ルシファー殿」
絶句する1に、1ミカが冷徹な視線とともに告げる。彼女の執念が、エレベーターの浮遊感と相まって、1の背筋を震わせた。そこまでされてはさすがに悪あがきをするわけにもいかず、1は仕方なく真面目に彼女の相手をすることにした。
「つってもなあ……デートなんざ、一緒に適当なとこ行ってメシ食って帰るだけだぞ?貴重な休暇を使うほどのもんじゃねえって」
「愛する者のすぐ傍で、同じひとときを共有できる……幸せなことではないか」
「そんな大げさなもんじゃねえだろ」
頭を掻きながら、1は困り切った様子で反論する。正直なところ、彼は誰かと出かけるのがさほど好きではない。いちいち相手に合わせるのが億劫だからだ。それならば、独りでいるほうがよほどいい。
1の往生際の悪さに、1ミカの目が鋭さを増した。
「それに、知っているのだぞ。リリス殿とは、たびたび休日に出かけているのだろう?」
怒気をはらんだ口調で、1ミカが1に詰め寄る。1のもうひとりの秘書であるリリスは、彼の最古参の部下である。1のことを好みのタイプではない、と公言するリリスだが、1ミカは二人の仲を未だに疑っていた。
「あれは、あいつが勝手についてきてるだけで、別にデートじゃねえ」
呆れたように、1は返す。確かに、リリスは彼のトレーニングにたまに同行することがある。しかし、それは彼女曰く仕事の一環であり、主である1の補佐をするためだ。飲料やタオルといった必要なものを渡してくる以外、リリスからは一切接触がない。そういう時の彼女は、本当にただそこにいるだけの「ちょっと便利な空気」程度の存在だった。
「だが、貴殿はリリス殿の同行を許している」
「あいつは特に干渉してこねえからな。気楽でいいんだ」
1ミカの詰問に、1は正直に答える。実のところ、最近リリスと出かけることは極端に減っている。彼女は、何となくついてきて欲しくないときには察してくれるのだ。これも長い付き合いのなせる業かもしれない。
「ならば、わたくしが同じことをしても何ら問題ないな」
リリスとは対照的に、空気を読まないタイプの1ミカは、ひるむことなく告げる。予想外の提案に、1は面喰らった。
「俺様が行くところに、勝手についてくるってことか?」
「そうだ。貴殿はいつも通りの休日を過ごせばいい。ただし、わたくしも共に行く」
頷いて、1ミカは胸を張る。そんな彼女を前に、1は困惑した。
「……本気で、気を遣わねえぞ?俺様」
「構わぬ」
一片の迷いもない瞳で、1ミカは条件を呑む。その強固な意志に、さすがの1も折れた。
「そこまで言うなら、好きにしろや。ただし、文句言うなよ」
「もちろんだ!」
指を突きつけ、1は念を押す。それに対し、1ミカは満面の笑みで応じた。地下まで行きそうだったエレベーターが、再び上昇する。ようやく解放されることに、1はとりあえず安堵したのだった。
そして、翌日。1が自室で身支度を整えていると、ノックの音とともにドアが開いた。
「迎えに参ったぞ、ルシファー殿!」
こちらの返事を待たずに、1ミカがずかずかと部屋に入ってくる。地獄の王に対してあるまじき無礼だが、いつものことなので1は気にしなかった。
「いやに早いな、お前」
「もたもたしていては、貴殿は行方をくらましそうだからな」
1の指摘に、1ミカが得意げな顔をする。鋭いじゃねえか、と1は内心舌打ちしていた。彼が出かける準備を終えるまでに彼女が現れなければ、容赦なく置いて行こうと思っていたのだ。文句を言われたら、ただついてくるというのはそういうことだ、と言いくるめるつもりだった。
「……それにしても、その恰好は何なんだ」
初撃をうまくかわされたことはさておいて、1は1ミカをあらためて見つめる。彼女は、白いブラウスにピンク色のフレアスカートをはいていた。よく見ると、髪飾りまでつけている。そのうえ、化粧もばっちりだ。普段のシックなスーツに身を包んだいでたちとは、ずいぶんとイメージが違う。
「これでも、気合を入れてめかしこんだつもりだが……おかしかったか?」
先ほどまでの強気な態度はどこへやら、1ミカはおずおずと1の反応を窺がってくる。ついてくるだけとか言いつつ、デートする気まんまんじゃねえか、という意地の悪い考えが、1の胸中をよぎった。
「別におかしくはねえが……まあいい。行くぞ」
赤いコートを羽織り、1は1ミカに声をかける。彼の服装は、いつもと何ら変わりないものだ。
「どこへ向かうのだ?」
「決まってんだろ、例の世界へだよ」
1ミカの問いに答えるや否や、1は前方に手をかざした。その先にある空間が歪み、いびつな穴が開く。彼が何をしようとしているのかを察し、1ミカも彼の後に続いて、次元の穴へ飛び込んだ。
向かう先は、こことは違う世界。1が休日を過ごす際に訪れる、お気に入りの場所である。
1が構築した次元を越える通路は、異世界の街・ナンナルの屋敷の空き部屋に繋がっている。家具がひとつも置かれていない殺風景な空間を、1ミカはむしろ懐かしいと感じた。
「ここへ来るのは、久しぶりだ……。カイン殿やフォース殿は、今日は不在なのか?」
窓の外に視線を向けている1に、ふと思い出して尋ねる。1ミカは、以前この世界で、1の友人たちに会っていた。彼らもまた、1と同様に他の世界から来たルシファー達なのだが、そこまでは彼女は知らない。
「そうかもしれねえし、まだ来てないのかもしれねえ。挨拶してえなら、広間で待っとくか?」
「いや、いい。わたくしはルシファー殿と共に行く」
1の案を、1ミカは却下する。せっかくここまで来たのに、屋敷に置いて行かれてはたまらない。ひょっとすると自分は試されているのだろうか、と1ミカは訝ったが、1の表情からは何も読み取れなかった。
「……あー、そうだ。この世界では俺様のことはシーザーって呼べ。そう名乗ってる」
階段を降りつつ、1が注文をつけてくる。この異世界では、彼は別の名を使っていた。それは、彼以外にもルシファーがいてややこしいからなのだが、そのへんの事情を知らない1ミカは、高貴な者はそういうことをするものだと勝手に解釈している。
「そう言えばそうだったな。ならば、わたくしも他の名を名乗ろう」
「別にお前はどうでもいいだろ」
「気分の問題だ」
ごっこ遊びじゃねえんだぞ、と顔をしかめる1に、1ミカは平然と返す。彼女以外のミカエルも確かに存在するし、たまにこの世界に来ることもあるようだが、今のところ接点がないので1にとってはどうでも良かった。
そんな彼の思惑をよそに、1ミカは考え込む。
「さて、どういう名にしようか……。貴殿のそのシーザーというのは、どこから思いついた名前なのだ?」
「シーザーは偽名じゃねえ。俺様の本名だ」
「……そうなのか?初めて聞いたぞ」
「言ってねえからな」
1ミカの問いかけに、1はあっさりと答えた。彼らの世界では、ルシファーやミカエルは地位を示す称号であり、生来の名は別にある。
「やはり、共に来て良かったな。貴殿のことをまた一つ、知ることができた」
「大げさなやつだな」
嬉しそうに、1ミカは破顔した。それにつられるように、1も苦笑する。
「よし、決めたぞ。わたくしのこの世界での名は、ハイメラインだ」
「それ、確かお前の本名だったか」
「知っていたのか?」
「メタトロンの野郎に聞いた」
「……そうか」
1の口から出た名前に、1ミカの顔が曇る。1ミカは、前世で恋人だったという理由で、天使長メタトロンから執拗な束縛と求愛を受けていたのだ。ハイメラインは、1ミカの本名であり、彼女の前世の名前でもある。
「この名前は、本当は好きではないのだ。どうしても、やつの顔が思い浮かぶ。この名から……この自分から逃れるために、わたくしはミカエルの称号を得た」
「それなら、無理しねえで別の名前を考えるか?」
1ミカの顔を覗き込みつつ、1が提案する。しかし、彼女は首を振った。
「いや、いい。きっと、すぐに平気になる」
「そうか。だったら……行くぞ、ハイメライン」
「うむ」
1に促され、1ミカは微笑んだ。何気なく呼ばれた名が、彼女の心に仄かな光を灯す。
(なぜなら、貴殿がこうして、この名を呼んでくれるのだから)
そう胸中で呟き、彼女は1とともに屋敷を出た。
「この世界の空は綺麗だな。これほど美しい青を、わたくしは見たことがない」
異世界の空の色を、1ミカは称賛する。彼らは今、上空を舞っていた。地獄の赤い空と違う、澄んだ群青は、見ているだけで爽快な気分になる。
「ぼやぼやしてる暇はねえぜ?一日は短けえからな」
彼女の隣で、1が飛翔速度を上げる。あわてて、1ミカもそれに倣った。
「一体、何をしようと言うのだ?シーザー殿」
「決まってんだろ。強えやつを探して、ぶっ倒すんだよ」
眼前にそびえたつ山を避けつつ、1が返す。自身の世界で最強の悪魔である彼は、それだけでは満足せず、己を鍛える場を常に求めているのだ。
「貴殿に優る闘士がこの世界にいると?」
「この世界は、他の世界から魔王やら勇者やらを呼び寄せてるんだ。その中に、骨があるやつらもいるだろ」
そう言って、1は唐突に停止した。急ブレーキをかける1ミカを、片手で受け止める。触れられたことにどぎまぎしつつ、1ミカは礼を言った。
「他の世界から……?ということは、カイン殿やフォース殿も……」
「やつらも、この世界の出身じゃねえ」
1ミカの推測を、1は肯定する。彼らは、元々は何者かによって召喚されて、この世界の存在を認識した。彼らと同様に召喚された者たちが魔王となって世界征服を企てたり、逆に勇者として世界を救ったりしていることも知っている。
「この広い世界で、どうやって探すのだ」
「そりゃ、適当な街に下りて、情報を得たりしてだな……」
「効率が悪いな」
1の意見を、1ミカはばっさりと斬り捨てる。少しむっとしながら、1は問い返した。
「んだよ、他に方法があるってのか?」
「ああ。シーザー殿は、誰かが己を呼ぶ声を聞くことはできるか」
「当然だ」
尋ねられ、1は答える。世界のどこにいても、自分を必要とする者の存在を感知できる……それは、高位の天使や悪魔ならば、普通に持っている能力だった。
「その、少し条件を広げたものを使えばいい。精神を集中させて、全世界の声に耳を傾けるのだ」
「それで、強えやつを見つけることができるのか?大ざっぱすぎねえ?」
「それくらいでちょうどいいだろう。必ず、いるはずだ。強き者を求めて、魂を震わせている者たちが」
1ミカは、地上を見渡した。元々、天界に閉じこもっていた彼女は、そこを離れることによって世界の広さを知った。そして、この異世界も広大だ。ここならば、1の求める好敵手が数多く存在するだろうと彼女は信じた。
「ま、やってみるか」
1ミカの熱意に押され、1は精神を集中させる。その途端、無数の声が彼の内に流れ込んできた。それに翻弄されず、少しずつ範囲を絞っていく。極限まで神経を研ぎ澄ませていく彼の耳に、ある音が届いた。それは生き物の声ではなく、文字通り、音……美しい、旋律だった。
「……お。何か引っかかった」
目を開けて、1は呟く。同時に音も聞こえなくなったが、出どころはすでにわかっていた。
「行ってみよう、シーザー殿」
1ミカに背中を押されるようにして、1は目的地へと向かった。
地獄の頂点に君臨する王がこの『赤龍』でどのように過ごしているかを知る者は、ほとんどいない。『赤龍』で1に仕えることを許されたごく少数以外は、摩天楼を羨望の眼差しで眺めるのみだ。
悪魔たちは噂する。彼らの王は、一体どのような暮らしをしているのか。力こそが正義であるこの地獄で、最強の悪魔ルシファーには、手に入らぬものなどない。一地方の領主ですら、民から搾取した富で好き勝手をしているのが現状なのだ。地獄の王ともなれば、その規模は桁違いだろう。この世の贅沢を極め、美女を侍らせ極上の酒に酔いしれる……そんな夢のような日々を送る1の姿を想像し、その座に取って代わりたいと、地獄中の悪魔たちは切に願うのである。
実際のところ、1が秘書ふたりにせっつかれて仕事に追いまくられ、執務机で大量の書類と格闘したり、各地の諍いに頭を悩ませたりして、酒池肉林とは程遠い日常を送っていることを、悪魔たちは知らない。
「ルシファー殿」
背後から声をかけられ、1は立ち止まる。声の主は、1の世界のミカエル……略して1ミカ。大天使だった彼女は、今は1の秘書の一人として、彼の仕事を手伝っている。蒼銀の柔らかい髪と凛々しい眼差しが特徴の彼女だが、今は業務が終わった解放感からか、その表情はいつもよりも穏やかだった。
「これから、帰るところだろう?一緒に行こう」
「おお」
1ミカの申し出を受け入れ、1は彼女と並んで『赤龍』の廊下を歩き出す。二人ともこの『赤龍』が職場兼自宅となっているので、帰宅の際には外に出る必要はないのだ。
「明日、わたくしと貴殿は休みが一緒だな」
「あー、そうだっけか」
「久方ぶりの休みだ。ここは、有効活用せねばなるまい」
「まあ、せっかくだから好きなことしねえとな」
エレベーターに乗り、二人は当たり障りのない会話をする。1や1ミカが住む部屋は最上階に位置するので、到着するにはしばし時間があった。
「というわけで、デートしよう」
「はあっ!?」
1ミカの話に適当に返答していた1は、突然放たれたストレートな誘いに対応できず、間が抜けた声を発した。少し離れたところにいたはずの1ミカは、いつの間にか自分のすぐ隣まで来ている。その距離の近さに、1はなぜか焦りを感じた。
「何でそうなるんだよ」
どぎまぎしながらも、言葉を返す。その反応が気に入らないのか、1ミカはむっとした顔になった。
「何で、とはご挨拶だな。よいか?わたくしが貴殿の元に来てだいぶ経つ」
「それがどうした」
「なのに、わたくしと貴殿の仲はまるで進展しないではないか!これはゆゆしき事態だぞ!?」
拳を握りしめて、1ミカが力説する。1は、エレベーターのドアの上部にある位置表示器に視線を向けた。最上階はまだ遠いうえ、こういう時に限って途中で乗ってくる者もいない。
「そりゃまあ、毎日毎日仕事ばっかだからな」
とりあえずこの密室で二人っきりという状況から逃れようと、1は話題を別の方向へ振ろうと試みる。それが功を奏したか、1ミカは怒りを引っ込めた。
「確かに、地獄の統治というのは、なかなかやりがいがあるし、わたくしは充実した日々を送っている」
「ならいいじゃねえか」
のらりくらりと返事をしつつ、1は再度、エレベーターのドアの方を見る。最上階はすぐそこだ。外に出てしまえば、逃げるなり何なりできる。1ミカのことは決して嫌いではないが、こうも強引に迫られてはその気になれるわけがない。
「よくない!わたくしは貴殿の妻となるために天界を捨てて地獄へ来たのだぞ!?
たまの休みくらい、わたくしにつき合ってくれてもいいではないか!」
しかし、現実は甘くなかった。最上階につくなり、1ミカはエレベーターのドアを閉めてしまったのである。1が反応するより早く、最下層行きのボタンが押され、エレベーターは再び動き出した。
「おまっ……なんつーことを」
「逃がさぬぞ、ルシファー殿」
絶句する1に、1ミカが冷徹な視線とともに告げる。彼女の執念が、エレベーターの浮遊感と相まって、1の背筋を震わせた。そこまでされてはさすがに悪あがきをするわけにもいかず、1は仕方なく真面目に彼女の相手をすることにした。
「つってもなあ……デートなんざ、一緒に適当なとこ行ってメシ食って帰るだけだぞ?貴重な休暇を使うほどのもんじゃねえって」
「愛する者のすぐ傍で、同じひとときを共有できる……幸せなことではないか」
「そんな大げさなもんじゃねえだろ」
頭を掻きながら、1は困り切った様子で反論する。正直なところ、彼は誰かと出かけるのがさほど好きではない。いちいち相手に合わせるのが億劫だからだ。それならば、独りでいるほうがよほどいい。
1の往生際の悪さに、1ミカの目が鋭さを増した。
「それに、知っているのだぞ。リリス殿とは、たびたび休日に出かけているのだろう?」
怒気をはらんだ口調で、1ミカが1に詰め寄る。1のもうひとりの秘書であるリリスは、彼の最古参の部下である。1のことを好みのタイプではない、と公言するリリスだが、1ミカは二人の仲を未だに疑っていた。
「あれは、あいつが勝手についてきてるだけで、別にデートじゃねえ」
呆れたように、1は返す。確かに、リリスは彼のトレーニングにたまに同行することがある。しかし、それは彼女曰く仕事の一環であり、主である1の補佐をするためだ。飲料やタオルといった必要なものを渡してくる以外、リリスからは一切接触がない。そういう時の彼女は、本当にただそこにいるだけの「ちょっと便利な空気」程度の存在だった。
「だが、貴殿はリリス殿の同行を許している」
「あいつは特に干渉してこねえからな。気楽でいいんだ」
1ミカの詰問に、1は正直に答える。実のところ、最近リリスと出かけることは極端に減っている。彼女は、何となくついてきて欲しくないときには察してくれるのだ。これも長い付き合いのなせる業かもしれない。
「ならば、わたくしが同じことをしても何ら問題ないな」
リリスとは対照的に、空気を読まないタイプの1ミカは、ひるむことなく告げる。予想外の提案に、1は面喰らった。
「俺様が行くところに、勝手についてくるってことか?」
「そうだ。貴殿はいつも通りの休日を過ごせばいい。ただし、わたくしも共に行く」
頷いて、1ミカは胸を張る。そんな彼女を前に、1は困惑した。
「……本気で、気を遣わねえぞ?俺様」
「構わぬ」
一片の迷いもない瞳で、1ミカは条件を呑む。その強固な意志に、さすがの1も折れた。
「そこまで言うなら、好きにしろや。ただし、文句言うなよ」
「もちろんだ!」
指を突きつけ、1は念を押す。それに対し、1ミカは満面の笑みで応じた。地下まで行きそうだったエレベーターが、再び上昇する。ようやく解放されることに、1はとりあえず安堵したのだった。
そして、翌日。1が自室で身支度を整えていると、ノックの音とともにドアが開いた。
「迎えに参ったぞ、ルシファー殿!」
こちらの返事を待たずに、1ミカがずかずかと部屋に入ってくる。地獄の王に対してあるまじき無礼だが、いつものことなので1は気にしなかった。
「いやに早いな、お前」
「もたもたしていては、貴殿は行方をくらましそうだからな」
1の指摘に、1ミカが得意げな顔をする。鋭いじゃねえか、と1は内心舌打ちしていた。彼が出かける準備を終えるまでに彼女が現れなければ、容赦なく置いて行こうと思っていたのだ。文句を言われたら、ただついてくるというのはそういうことだ、と言いくるめるつもりだった。
「……それにしても、その恰好は何なんだ」
初撃をうまくかわされたことはさておいて、1は1ミカをあらためて見つめる。彼女は、白いブラウスにピンク色のフレアスカートをはいていた。よく見ると、髪飾りまでつけている。そのうえ、化粧もばっちりだ。普段のシックなスーツに身を包んだいでたちとは、ずいぶんとイメージが違う。
「これでも、気合を入れてめかしこんだつもりだが……おかしかったか?」
先ほどまでの強気な態度はどこへやら、1ミカはおずおずと1の反応を窺がってくる。ついてくるだけとか言いつつ、デートする気まんまんじゃねえか、という意地の悪い考えが、1の胸中をよぎった。
「別におかしくはねえが……まあいい。行くぞ」
赤いコートを羽織り、1は1ミカに声をかける。彼の服装は、いつもと何ら変わりないものだ。
「どこへ向かうのだ?」
「決まってんだろ、例の世界へだよ」
1ミカの問いに答えるや否や、1は前方に手をかざした。その先にある空間が歪み、いびつな穴が開く。彼が何をしようとしているのかを察し、1ミカも彼の後に続いて、次元の穴へ飛び込んだ。
向かう先は、こことは違う世界。1が休日を過ごす際に訪れる、お気に入りの場所である。
1が構築した次元を越える通路は、異世界の街・ナンナルの屋敷の空き部屋に繋がっている。家具がひとつも置かれていない殺風景な空間を、1ミカはむしろ懐かしいと感じた。
「ここへ来るのは、久しぶりだ……。カイン殿やフォース殿は、今日は不在なのか?」
窓の外に視線を向けている1に、ふと思い出して尋ねる。1ミカは、以前この世界で、1の友人たちに会っていた。彼らもまた、1と同様に他の世界から来たルシファー達なのだが、そこまでは彼女は知らない。
「そうかもしれねえし、まだ来てないのかもしれねえ。挨拶してえなら、広間で待っとくか?」
「いや、いい。わたくしはルシファー殿と共に行く」
1の案を、1ミカは却下する。せっかくここまで来たのに、屋敷に置いて行かれてはたまらない。ひょっとすると自分は試されているのだろうか、と1ミカは訝ったが、1の表情からは何も読み取れなかった。
「……あー、そうだ。この世界では俺様のことはシーザーって呼べ。そう名乗ってる」
階段を降りつつ、1が注文をつけてくる。この異世界では、彼は別の名を使っていた。それは、彼以外にもルシファーがいてややこしいからなのだが、そのへんの事情を知らない1ミカは、高貴な者はそういうことをするものだと勝手に解釈している。
「そう言えばそうだったな。ならば、わたくしも他の名を名乗ろう」
「別にお前はどうでもいいだろ」
「気分の問題だ」
ごっこ遊びじゃねえんだぞ、と顔をしかめる1に、1ミカは平然と返す。彼女以外のミカエルも確かに存在するし、たまにこの世界に来ることもあるようだが、今のところ接点がないので1にとってはどうでも良かった。
そんな彼の思惑をよそに、1ミカは考え込む。
「さて、どういう名にしようか……。貴殿のそのシーザーというのは、どこから思いついた名前なのだ?」
「シーザーは偽名じゃねえ。俺様の本名だ」
「……そうなのか?初めて聞いたぞ」
「言ってねえからな」
1ミカの問いかけに、1はあっさりと答えた。彼らの世界では、ルシファーやミカエルは地位を示す称号であり、生来の名は別にある。
「やはり、共に来て良かったな。貴殿のことをまた一つ、知ることができた」
「大げさなやつだな」
嬉しそうに、1ミカは破顔した。それにつられるように、1も苦笑する。
「よし、決めたぞ。わたくしのこの世界での名は、ハイメラインだ」
「それ、確かお前の本名だったか」
「知っていたのか?」
「メタトロンの野郎に聞いた」
「……そうか」
1の口から出た名前に、1ミカの顔が曇る。1ミカは、前世で恋人だったという理由で、天使長メタトロンから執拗な束縛と求愛を受けていたのだ。ハイメラインは、1ミカの本名であり、彼女の前世の名前でもある。
「この名前は、本当は好きではないのだ。どうしても、やつの顔が思い浮かぶ。この名から……この自分から逃れるために、わたくしはミカエルの称号を得た」
「それなら、無理しねえで別の名前を考えるか?」
1ミカの顔を覗き込みつつ、1が提案する。しかし、彼女は首を振った。
「いや、いい。きっと、すぐに平気になる」
「そうか。だったら……行くぞ、ハイメライン」
「うむ」
1に促され、1ミカは微笑んだ。何気なく呼ばれた名が、彼女の心に仄かな光を灯す。
(なぜなら、貴殿がこうして、この名を呼んでくれるのだから)
そう胸中で呟き、彼女は1とともに屋敷を出た。
「この世界の空は綺麗だな。これほど美しい青を、わたくしは見たことがない」
異世界の空の色を、1ミカは称賛する。彼らは今、上空を舞っていた。地獄の赤い空と違う、澄んだ群青は、見ているだけで爽快な気分になる。
「ぼやぼやしてる暇はねえぜ?一日は短けえからな」
彼女の隣で、1が飛翔速度を上げる。あわてて、1ミカもそれに倣った。
「一体、何をしようと言うのだ?シーザー殿」
「決まってんだろ。強えやつを探して、ぶっ倒すんだよ」
眼前にそびえたつ山を避けつつ、1が返す。自身の世界で最強の悪魔である彼は、それだけでは満足せず、己を鍛える場を常に求めているのだ。
「貴殿に優る闘士がこの世界にいると?」
「この世界は、他の世界から魔王やら勇者やらを呼び寄せてるんだ。その中に、骨があるやつらもいるだろ」
そう言って、1は唐突に停止した。急ブレーキをかける1ミカを、片手で受け止める。触れられたことにどぎまぎしつつ、1ミカは礼を言った。
「他の世界から……?ということは、カイン殿やフォース殿も……」
「やつらも、この世界の出身じゃねえ」
1ミカの推測を、1は肯定する。彼らは、元々は何者かによって召喚されて、この世界の存在を認識した。彼らと同様に召喚された者たちが魔王となって世界征服を企てたり、逆に勇者として世界を救ったりしていることも知っている。
「この広い世界で、どうやって探すのだ」
「そりゃ、適当な街に下りて、情報を得たりしてだな……」
「効率が悪いな」
1の意見を、1ミカはばっさりと斬り捨てる。少しむっとしながら、1は問い返した。
「んだよ、他に方法があるってのか?」
「ああ。シーザー殿は、誰かが己を呼ぶ声を聞くことはできるか」
「当然だ」
尋ねられ、1は答える。世界のどこにいても、自分を必要とする者の存在を感知できる……それは、高位の天使や悪魔ならば、普通に持っている能力だった。
「その、少し条件を広げたものを使えばいい。精神を集中させて、全世界の声に耳を傾けるのだ」
「それで、強えやつを見つけることができるのか?大ざっぱすぎねえ?」
「それくらいでちょうどいいだろう。必ず、いるはずだ。強き者を求めて、魂を震わせている者たちが」
1ミカは、地上を見渡した。元々、天界に閉じこもっていた彼女は、そこを離れることによって世界の広さを知った。そして、この異世界も広大だ。ここならば、1の求める好敵手が数多く存在するだろうと彼女は信じた。
「ま、やってみるか」
1ミカの熱意に押され、1は精神を集中させる。その途端、無数の声が彼の内に流れ込んできた。それに翻弄されず、少しずつ範囲を絞っていく。極限まで神経を研ぎ澄ませていく彼の耳に、ある音が届いた。それは生き物の声ではなく、文字通り、音……美しい、旋律だった。
「……お。何か引っかかった」
目を開けて、1は呟く。同時に音も聞こえなくなったが、出どころはすでにわかっていた。
「行ってみよう、シーザー殿」
1ミカに背中を押されるようにして、1は目的地へと向かった。
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