L-Triangle!2-4
- 2014/03/10
- 13:23
そして数日後、ナンナルの街は騒然となる。何しろ、魔物の軍勢がこちらへ向かって一直線に攻めてくるのだ。最初にそれに気づいたのは、街の時計台に上っていた修理工だった。
「た、大変だ!!魔物が攻めてくるぞ!!」
修理工のこの一言で、街の住人達は教会へ押しかける。そこは、緊急時の際の避難所になっていた。事の真偽を確認するために教会の屋根に上った若者が、青い顔で人々が集まる礼拝堂へと戻ってきた。
「ほ、本当だ……あんな大軍に勝てっこねえ……!」
若者の報告に、人々が騒然となる。彼が見たのは、ただ通り過ぎただけでも街全体を蹂躙できるほどの、おびただしい数の魔物たちだった。それが、土煙を上げながら近づいてくるのだ。今はまだ、だいぶ距離があるのだが、あと半日もすれば彼らが街に到達することが予測される。魔物たちの気が変わるか、奇跡でも起こらない限り、回避することは不可能だった。
「勇者様はいないのか!?」
恐怖に耐えかねたように、誰かが叫ぶ。しかし、名乗り出る者はいない。
「あの事件の後、どこかへ去ったってうわさを聞いたぞ?」
「ああ……もう終わりだ……!」
絶望の声がして、大人たちは頭を抱えた。気を静めるようにと神官たちが彼らに声をかけるものの、何の慰めにもならなかった。
「勇者様……!どこ行っちゃったんだよ……!」
親に連れられて教会に来ていた少年たちが、不安げに呟く。彼らは以前、魔物に襲われたところを2に助けられた子供たちだった。
そんな混乱の中、町はずれの屋敷は変わらず静かに佇んでいる。まるで、この喧騒は自分にとっては無関係だというかのように。
屋敷の二階の一室に、光が灯った。光は軌跡を描き、ひとつの魔方陣を形成する。けだるそうに姿を現したのは、2だった。
「あ~……ここ来るのも久々だな」
ミナの訪問を受けて以来、2はずっと元の世界で仕事や友人たちのつきあいに精を出していた。それはそれで、充実した日々だったのだが、ふと思い立ってこの異世界の様子を見に来た、というわけだ。
誰かいないのか、と一階の広間に降りてみるものの、人の気配はない。今日は俺一人か、と胸中で呟き、2は窓から外を眺め……ただならぬ雰囲気を感じ取った。人々が、必死の形相で右往左往している。
「また、祭りでも始めたのか?」
事情がわからず、のんきに首をかしげる2。そこへ。
「お邪魔しま~す」
「へ!?」
声がして、ドアが開いた。顔を出したのは、件のゴスロリ少女・ミナである。唐突の訪問に、2が素っ頓狂な声を上げる。
「やっほー、久しぶり~」
ミナが、ひらひらと手を振る。2に冷たく拒絶されたことを、彼女はすっかり忘れているふうだった。あれからだいぶ日が経っているので、無理もないことだが。
「お前、まだいたのか?」
「この街、けっこう気に入っちゃって」
相も変わらずそっけない2に対し、ミナは笑顔で返す。彼女が何の目的でここに来たのかわからず、2は怪訝な表情をするが、己の疑問を解消することを優先させた。
「それより、外は何の騒ぎだ。お前、説明できるか?」
「うん。魔王の軍勢が攻めてくるんだって」
さらりと、とんでもないことを報告する、ミナ。2は、驚愕の声を上げた。
「はあ!?何でだよ」
「たぶん……報復かなあ?」
「……何か嫌な予感がするんだが。まあいい」
そう言うが早いか、2がすたすたと玄関に向かって歩き出す。彼に向かって、ミナがのんびりと尋ねる。
「どこ行くの?」
「決まってんだろ、魔王だかなんだか知らねえが、ここを破壊されると迷惑だ。帰ってもらう」
これ以上会話をするのも惜しいという風に、そっけなく返す、2。ミナが意味ありげに微笑していることに、彼は気づかなかった。
「いいこと教えてあげるよ。魔王は、巨大なワニの姿をしているんだってさ」
「ワニを探せばいいんだな?ありがとよ」
彼女に礼を言って、2は玄関から出て行った。蝙蝠のような翼を生やし、勢いよく飛び立つ。
「いってらっしゃ~い」
ひとが空を飛んだことに微塵も動揺せず、ミナが彼を送り出す。その顔は、実に楽しそうだった。
魔物の大軍の、本陣にあたる場所。金属鎧に身を固めたワニ魔王が、望遠鏡を片手にほくそ笑んでいた。
「ふふふ……ここまで、迎撃もなしか。腑抜けどもめ、思い知らせてくれる」
そこへ、鳥の外見を持つ獣人が空から降り立ち、報告する。
「間もなく、先発隊が目標に到達します!」
「よし。攻撃開始だ!!」
ワニ魔王の指揮の下、先発隊の魔物たちが一斉に攻撃態勢をとる。ブレスや攻撃魔法、投擲武器が、街の外壁に集中砲火を浴びせる。轟音と煙が、ナンナルの街を覆った。
「何……!?」
攻撃の第一陣が止み、ワニ魔王は驚愕した。攻撃目標である人間たちの街は、破壊の跡ひとつない。まるで、不可視の壁に弾かれたかのように、攻撃は霧散していた。
「ば、バカな!?」
予想外の事態に動揺する、ワニ魔王。さらに追い打ちをかけるように、部下が声を上げる。
「魔王様!あれを!」
「何だ!?」
「上空からものすごい速さで接近してくる者がいます!」
ワニ魔王は、空を仰ぎ見た。確かに、何者かがこちらに向かって近づいてきている。あわてて、魔王は部下を怒鳴りつける。
「何をやっている!撃ち落とせ!!」
「それが、攻撃が全て跳ね返され……ぐへっ!!」
話の途中で、部下は悲鳴を上げて吹っ飛んだ。周囲の喧騒をものともせずに、一人の青年が着地する。それは、戦場の、しかも敵地の中心にいるにはあまりに場違いな軽装をした、細身の青年だった。
「よっ……と」
緊張感のない声とともに、2は翼を畳む。
「な、な……」
「いたいた、ワニ野郎」
絶句し、硬直するワニ魔王。そんな彼を、嬉しそうに2は指さした。
「貴様、一体……」
「お前がこの軍のトップか?」
どもりつつの魔王の疑問に答えず、マイペースに問い返す、2。気を取り直し、ワニ魔王は身構えた。
「そ、その通りだ!我は、魔四天王のひとり!貴様たちに倒された同朋の仇、とらせてもらうぞ!」
「四天王?同朋?……何か、話が見えてきたぜ」
魔王の放つ殺気をものともせずに、2はぶつぶつと呟く。相手に合わせようという気は、微塵もないらしい。その巨体に見合った、物騒な装飾の戦斧をぎらつかせ、ワニ魔王は唸り声を上げた。
「ここまで単騎で突っ込んでくるとは、なかなか勇ましいやつだ。その心意気に免じて、一騎打ちを受けてやろう!」
「……つまり、悪いのはあいつらで、俺は関係ねえってことだな」
相変わらず、ワニ魔王を視界に入れることもせずに独白を述べ、2はうんうん、と頷く。魔王は、怪訝な表情で彼に問いかけた。
「どうした!?かかってこんのか!?」
「あー……悪ぃが、帰ってくれねえか?今、あいつらいねえんだわ」
「何?」
ようやく会話をする気になった2がしたのは、予想外にも程がある提案だった。ワニ魔王だけでなく、周囲の部下たちもざわめく。そんなことはおかまいなしに、彼は続けた。
「お前らの仲間のたぶん仇、今はあの街にいねえんだよ。今度あいつらが来たら教えてやるから、今日はもう帰れ」
諭すように、2が告げる。まるで、急用の際に遊びに来た相手に謝罪するかのような口ぶりに、さすがに怒りを感じてワニ魔王が吠えた。
「……ふざけるな!!こちらは精鋭を率いて来ているのだ!砦のひとつでも落としてやらねば気が済まん!」
「そう言われてもなあ……。ここは俺に免じて退いてくれよ。な?」
あくまでふざけた交渉を繰り返す、2。登場した時からそうだったが、戦意の欠片も感じられない。ワニ魔王は、彼のことを平和ボケした狂人だと判断した。獰猛な笑みを浮かべ、斧を構え直す。
「そうだな……手土産に、貴様の首をもらおうか!」
一気に距離を詰め、ワニ魔王は2の脳天に向かって斧を振り下ろした。巨体に似合わぬ俊敏な動きによる渾身の一撃は、しかし硬い音とともに阻まれる。
「な……!!」
魔王は、己の目を疑った。彼の戦斧を受け止めたのは、盾や剣ですらない。それは、刃の厚さよりも遥かに劣る、青年の細い片腕だった。
「てめえ、下手に出てりゃいい気になってんじゃねえぞ」
2が、ワニ魔王をじろりと睨む。斧と接している片腕には、傷一つついていない。周囲の困惑をよそに、2は腕を一振りする。斧の刃は、粉々に砕け散った。その衝撃に、ワニ魔王がたたらを踏む。魔物たちが騒然とする中、2はゆらり、と魔王に近づいた。
「めんどくせえの我慢して穏便に済まそうっていうこの俺の心遣いを無にするとは、命がいらねえらしいなあ?」
2の口調は、あくまで穏やかである。しかし、そこに怒気がはらんでいることは明白だった。背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、反射的に後ずさる、ワニ魔王。しかし、彼には奥の手があった。
「命がなくなるのは、貴様の方だ!!」
咆哮し、ワニ魔王は全身に力を込める。鎧が弾け飛び、魔王の筋肉が膨張する。めきめきと音を立てて、魔王は巨大化していった。魔物たちが、悲鳴を上げて散開する。
ワニ魔王は、十倍以上の大きさのワニへと変異していた。ただでさえ過剰だった2との体格差は、更に広がる。
「ふはははは!!丸呑みにしてくれる!!」
割れがねのような魔王の哄笑が、戦場に響き渡る。ちょっとした山ほどの大きさになった相手を、2はさしたる感情もなく見上げた。無言のまま、彼の姿がその場から掻き消える。
「へ?」
標的を見失い、魔王は周囲を見渡そうと首をひねり……次の瞬間、巨大な手によって鷲掴みにされた。わけがわからずじたばたともがく魔王を、手の主が睨み据える。禍々しい体色の、角を生やしたその怪物は、かなり顔つきが変わっているものの、先ほどまで目の前にいた青年の面影がある。2もまた姿を変えたのだとワニ魔王は悟った。
地獄中の悪魔や罪人たちを震え上がらせている魔王ルシファーの姿が、そこにあった。
「誰を丸呑みだぁ?地獄の奥底で噛み砕いてやろうか?あぁ?」
地の底からわき上がるような低い唸り声で、2が手の平サイズのワニを恫喝する。ワニ魔王が現在いる高度は、すでに遥か雲の上だ。
「…………」
ワニ魔王は沈黙し、
「すいませんでした」
数分の後、完全に戦意を喪失して、素直に謝った。
魔物の軍勢が接近していることに気づいた街の人々は、教会の地下に避難し、息を潜めていた。しかし、半日が経過したにもかかわらず、地上から破壊音の一つも聞こえてこない。不審に思い、勇気ある若者たちが偵察隊を組織し、教会の屋根に上る。彼らが目にしたのは、来たときと同様、土煙を上げて撤退していく魔物たちの姿だった。
「魔物の軍勢が、退いていくぞ!!」
「奇跡だ!」
若者たちは、手を取り合って歓声を上げた。すぐに地下の避難所に情報が伝わり、朗報は人々に知れ渡ることとなる。ある者は涙を流し、ある者は安堵のあまり気を失って倒れ込む。
「これは、神の奇跡か?」
呆然としながら、ひとりが神官に問う。神官が答える前に、他の誰かが話を遮った。
「いや、勇者様のおかげだ!勇者様が、魔物たちを退治してくれたに違いない!」
それは、何の根拠もない推測にすぎなかったが、かつて勇者の活躍により脅威から救われた(と思い込んでいる)人々は、彼の言葉を信じた。
「勇者様、ばんざーい!」
避難所に、人々の歓声が上がる。そして、彼らは先を争いながら、教会から飛び出した。建物の屋根に上って、魔物たちの様子を確認する者がいれば、広場で抱き合う恋人たちもいる。
かつて2に助けられた二人の子供たちもまた、その喜びの中にいた。秘密を共有するかのように彼らは顔を見合わせ、笑い合う。
「……兄ちゃん、ありがとう」
大人たちに聞こえないように、彼らはそっと、呟いた。
「……はあ……また、勇者かよ」
屋敷にこっそりと帰還した2は、外から聞こえる勇者を讃える声に、げんなりした顔をした。そんな彼を、ミナが出迎える。いつの間に用意したのか、手には液体が入ったグラスを持っていた。
「おかえり~、お疲れ様」
にっこり笑って、ミナは2にグラスを差し出す。それを受け取り、彼は中の液体を飲み干した。柑橘系のさわやかな香りを伴う冷たさが、喉を潤す。
「……驚かねえんだな」
「世界中を旅してるって言ったでしょ?色んな事があるよ」
「……そうかよ」
グラスを返しつつ、ぶっきらぼうに問う。彼が翼を生やして飛び立ったのを、ミナは目撃したはずだ。そして、魔物の軍勢を撤退させたことも。普通ならば、2に対して恐怖を抱いてもおかしくない状況だというのに、彼女の態度は変わらない。
「ま、今回みたいなのはさすがに初めて見たけどね」
グラスをテーブルに置きながら、ミナが笑みを漏らす。彼女が何も聞いてこないならば、こちらがあえて話す必要もないだろう。そう判断し、2は余計な説明はしないことにした。黒革のソファーに、どっかりと腰を下ろす。つられたように、ミナも向かいに座った。
「あのワニ野郎、仲間のかたき討ちに来たとか言ってやがった。お前、何か知ってるか?」
「詳しくは知らないけど……原因はわたしにあるかも」
「何したんだよ、お前」
テーブルに片肘をついて、ミナに尋ねる。さほど悪びれもせずに、彼女は答えた。
「あのふたりに頼まれて、あのワニの仲間の所在地の地図を渡しちゃったから」
「……つまりは、お前が悪いと」
2に半眼で睨まれ、ミナはあわてて両手を振る。
「わたしは情報を渡しただけだよ?どう使うかは本人次第だと思うけどなあ」
「タチ悪ぃな、お前」
ミナの無責任にもほどがある理屈に、2は苦笑した。彼女のような無自覚にトラブルを振りまくタイプは、地獄にいくらでもいる。そして、そう言った連中のことを、彼は嫌いではなかった。今までずっと仏頂面しか見せなかった2の笑顔に気を良くしたか、ミナの頬が緩む。しかし、次に彼女が口にしたのは、別の話題だった。
「魔四天王も、残りはあとひとりだね。どうする?」
「知らねえよ。勝手にすればいいだろ、俺の迷惑にならないところでな」
「君は好戦的じゃないんだね」
2がソファーに背を預け、足を組み直すのを見ながら、ミナは意外そうな顔をする。1や3のように、彼も魔王の居場所を自分に聞いてくると思ったのだ。魔四天王との全面対決を期待されていたのを感じとり、2は肩をすくめる。
「誰かれ構わずケンカ売ればいいってわけじゃねえだろうが。戦うのは本当に必要なときだけでいいんだよ」
「……なるほどね」
2の言葉に、ミナは感心したように相槌を打つ。彼女から視線を逸らし、2はここにいない二人のことを思った。胸に、ふつふつと怒りがわいてくる。
「それにしても、あいつら、よそに勝手にケンカ売りに行きやがって。おかげで俺まで巻き込まれたじゃねえか。今度会ったら、文句言ってやる」
恨みがましい目つきで、ぶつぶつと恨み言を言う2。ミナは、微笑ましそうに目を細めた。
「……君たち、仲いいよね」
「あぁ?どこがだよ」
「いや、仲いいって。わたし、ずっとひとりだったから、うらやましいよ」
ミナが、軽い口調で告げる。その仕草がどこか寂しげで、2は彼女に目を奪われた。何か言わなければいけない気がして、咄嗟に口を開く。
「あー……お前、図々しいっつうか馴れ馴れしいんだから、居場所くらいすぐ作れるだろ」
「あはは、そうかもね」
不器用な励ましに、ミナがからからと笑う。
ミナの孤独で、そのくせ変に人懐っこいところは3に似ている気がして、庇護欲をくすぐられる2だった。
そしてまた数日が経過した、ある日。3は、久方ぶりに異世界を訪れていた。魔方陣の光が止むと、目の前に見知った姿がある。
「よお」
自分がこちらを見ているのに気づいたのだろう。1が、軽く片手を上げる。
「やあ、久しぶり。ええと、最後に会ったのはいつだっけ」
3の問いに、1は天井を見上げて記憶を辿り、すぐにあきらめて首を振った。
「覚えてねえな。ずっと自分の世界で仕事してたからよ」
「君も?」
3が、驚いて聞き返す。頷いて、1はげんなりしたようにため息をついた。
「あの魔四天王とかいうやつがあまりに大したことなかったから、拍子抜けしちまってな」
「ああ……実は、私もなんだ」
嫌なことを思い出した、という風に、3もまた渋面になる。1は、意外そうに3を見た。あの日、ミナに地図をもらって3と別れて以降、彼が何をしていたかを知らなかったのだ。
「お前もあの女から情報もらったのか?で、どうだった」
「君と似たような感想だと思うよ。あの程度なら放っといてもいいかなって」
問われ、3は苦笑する。だよな、と1が同意した直後、バタン、と音がして、扉が乱暴に開いた。突然の侵入者に二人は一瞬身構えたものの、それが2であることにすぐ気づき、彼に声をかける。
「何だ、いたのかお前」
「久しぶりだね、元気だった?」
それぞれがマイペースに過ごしているとはいえ、久しぶりに三人が揃ったことを、1と3は素直に喜んでいる。だが、彼らの予想に反し、2の表情は硬いままだった。
「……お前ら」
「??」
2が、怒気をはらんだ声で低く唸る。わけがわからず、1と3はきょとんとした様子で、彼をまじまじと見つめた。そんな彼らに向かって、2が床を人差し指で指し示す。
「ちょっとそこ座れ」
「な、何だよ」
「え?どうして怒って……」
2の気迫に押され、3だけでなく1も困惑する。おどおどした態度でこちらの顔色をうかがう二人を睨み据え、2はもう一度、告げた。
「いいから座れ」
異世界の辺境の街・ナンナルの、更に郊外にある屋敷の一室。ここに、奇跡と言ってもいいほど珍しい光景があった。
地獄の王であり、悪魔たちの統率者である魔王・ルシファーが二人、板張りの床に正座させられている。彼らの前にいるのもまた、ルシファー。この、あまりに奇妙な状況を目の当たりにしたら、神ですらも面喰うであろう。当事者たちにとっては、どうでもいいことかもしれないが。
「お前らなあ……よそにケンカ売るのはいいけど中途半端に放置すんなよ!おかげでこの街、危うく滅びるところだったんだからな!」
腕組みをしながら、2が1と3を怒鳴りつける。自分たちの行動がそんな非常事態を招いたとは、夢にも思わなかったのだろう。1と3は、顔色を変えた。
「ええ!?」
「は!?何でだよ」
「お前らがケンカ売ったやつらの仲間が軍隊率いて攻めてきたんだよ」
不機嫌全開の態度で、2が事情を説明する。ようやく事態が飲みこめたのか、3は深々とため息をついた。
「ああ……報復かあ……そこまで考えてなかったなあ……」
申し訳なさそうに、3が俯く。彼としては、ほんの軽い気持ちで魔王を訪問したのだが、これほど恨みを買うとは思っていなかったのだ。
「で、その軍隊はどうしたんだ?」
3とは違い特に反省したふうもなく、1が尋ねる。街の外は、相変わらず平和なようだ。二、三日前までは例によってお祭り騒ぎだったのだが、今ここに来たばかりの彼がそれを知るはずもない。それに対し、2は淡々と答えた。
「大将と話をつけて帰らせた」
「君が何とかしてくれたんだ。すまない、迷惑をかけたね」
3が、殊勝な態度で2に頭を下げる。一方、1は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「帰らせただけかよ、温いな。調子に乗ってまた来るんじゃねえか?」
「誰が原因でそうなったと思ってんだよ」
じろりとにらまれ、1は言葉に詰まる。さすがに、己に落ち度があったことは自覚しているらしい。3が、眉をひそめて思案する。
「うーん……どうしようか。相手はここを知っているわけだよね?」
「今残ってるやつら、全員潰すか」
「それもひとつの方法かもね」
楽しそうに、1が拳を握りしめる。意外なことに、3もそれに同意した。彼らしからぬ過激な発言に、2が怪訝そうな顔をする。
「何だよお前ら、物騒だな……シーザーの野郎はともかく、お前までどうした」
気遣わしげに、2は3の顔を覗き込んだ。彼の方を見ようともせずに、3は淡々と告げる。
「自分に関係ないところでなら何をしていても見逃すけど、牙をむかれたら容赦する必要もないかなって」
「荒んでんなあ……仕事漬けで参ってんのか?そんなんじゃ、この先地獄の王なんて続けられねえぞ?力抜けよ」
からかうように、2は3の額を指で軽く小突いた。我に返ったように3は目を瞬かせ、ふっと笑みを漏らす。
「あぁ……確かに、生活ガラっと変わったから疲れてるかも」
神の計略により、人間界を何年も彷徨ったあげく、地獄の王になった3は、日々を激務に追われていた。神は、確かに地獄の元となる大地を創世したものの、後はルシファーである彼に丸投げだった。地獄の土地自体も不完全かつ劣悪な代物で、ところどころに次元のゆがみまで見受けられる。土地をつぶさに点検し、浄化していかなければ、とても人が住めるような状態ではなかった。
広大な地獄を浄化するのは、さすがの3でも骨が折れる作業だった。しかも、たびたび双子の弟であるミカエル……3ミカがやってきて、嫌味や言いがかりをつけてくる。3が荒むのも、無理からぬことだった。
「んだよ、だらしねえな」
1が、肩を落とす3をばっさりと切り捨てる。その表情に悪意はなく、むしろ彼を発奮させようとしているかのようだ。目を閉じ、3はゆっくりと深呼吸をする。忙しさにかまけて、我を失いそうになっていたことに、改めて気づかされた。
「……うん、大丈夫大丈夫。とりあえず、話でも聞きに行ってみようかな。どうするかは、その後でもいいし」
3が、幾分か落ち着いた表情で提案する。いつもの彼が戻ってきたことに、2は胸中で安堵した。
「だったらワニ魔王のところに行ってやれよ。お前らに会いに軍勢まで引きつれて攻めてきたんだし」
「そうだね」
2の意見に3は素直に頷いて、彼に尋ねた。
「それで、そのワニ魔王の名前、何だった?」
「…………あ」
当然と言えば当然な疑問に、2が硬直する。魔物の軍勢を追い返すのに手いっぱいで、肝心の大将の名前のことにまで考えが及ばなかったのだ。3が、首をかしげる。
「……ひょっとして、聞くの忘れた?」
「……わりぃ」
ばつが悪そうに、2が頬を掻く。3は、懐からミナにもらった地図を取り出した。
「ミナから教えてもらったのは名前と居場所だけだしなあ……どっちだろう」
「ワニっぽい名前の方だろ?」
「ワニっぽいってどんなんだよ」
地図を覗き込みつつ、1が突拍子もないことを言う。2は、即座にツッコミを入れた。
「えーと……シーザー、君が会ったのは誰?」
「おお、これだこれ」
3の問いに、1はナンナルから一番近い箇所を指さした。そこには、魔王ゲメーティス、と書かれている。
「……やっぱり一番近いところに行ったんだね。で、私は一番遠いところの魔王に会いに行った、と」
「じゃ、その二人は除外な」
2が、ゲメーティスとヒメルダの箇所を指で軽く弾く。地図から、二つの名前が消滅した。
「残ってんのは、エビルカイマンってのと」
「アガレスっていう魔王だね」
1と3が、交互に言う。そして、地図に視線を注いだまま、三人はしばし沈黙した。
「…………」
「……どっちが、ワニっぽい?」
3が、おもむろに口を開く。その表情は、真剣そのものだ。
「エビルカイマンの方が強そうじゃねえか?何となく」
「強い弱いは関係ねえだろ、どっちがワニっぽいかだ」
1の意見を、2が大真面目な顔で却下する。名前の響きでどちらがワニかを判断するのはかなり無理があることに、彼らは気づいていないようだ。
「ミナに聞いてみようか?まだこの街にいればいいけど」
ようやく建設的な意見を3が述べた、その時。2が、思い出したように手を打った。
「……あ!確か堕天使にアガレスってやつがいた気がする!」
「お、どんなやつだ?」
興味を惹かれたように、1が身を乗り出す。考え事が苦手な彼は、何でもいいから話が前に進めばそれでいいらしい。
「何かワニっぽかったぞ、たぶんだけどな」
「それだ!よし、行くぜ!」
「おう!」
2の、不確定きわまりない推測は、1によってあっさりと採用されてしまった。言うが早いか、1と2が屋敷の窓から飛び出して行く。
「え?確認とらないの?……しょうがないな……」
そんな彼らを見て、3は不安そうな顔をしたが、それでも二人を止めることなく後を追った。
「た、大変だ!!魔物が攻めてくるぞ!!」
修理工のこの一言で、街の住人達は教会へ押しかける。そこは、緊急時の際の避難所になっていた。事の真偽を確認するために教会の屋根に上った若者が、青い顔で人々が集まる礼拝堂へと戻ってきた。
「ほ、本当だ……あんな大軍に勝てっこねえ……!」
若者の報告に、人々が騒然となる。彼が見たのは、ただ通り過ぎただけでも街全体を蹂躙できるほどの、おびただしい数の魔物たちだった。それが、土煙を上げながら近づいてくるのだ。今はまだ、だいぶ距離があるのだが、あと半日もすれば彼らが街に到達することが予測される。魔物たちの気が変わるか、奇跡でも起こらない限り、回避することは不可能だった。
「勇者様はいないのか!?」
恐怖に耐えかねたように、誰かが叫ぶ。しかし、名乗り出る者はいない。
「あの事件の後、どこかへ去ったってうわさを聞いたぞ?」
「ああ……もう終わりだ……!」
絶望の声がして、大人たちは頭を抱えた。気を静めるようにと神官たちが彼らに声をかけるものの、何の慰めにもならなかった。
「勇者様……!どこ行っちゃったんだよ……!」
親に連れられて教会に来ていた少年たちが、不安げに呟く。彼らは以前、魔物に襲われたところを2に助けられた子供たちだった。
そんな混乱の中、町はずれの屋敷は変わらず静かに佇んでいる。まるで、この喧騒は自分にとっては無関係だというかのように。
屋敷の二階の一室に、光が灯った。光は軌跡を描き、ひとつの魔方陣を形成する。けだるそうに姿を現したのは、2だった。
「あ~……ここ来るのも久々だな」
ミナの訪問を受けて以来、2はずっと元の世界で仕事や友人たちのつきあいに精を出していた。それはそれで、充実した日々だったのだが、ふと思い立ってこの異世界の様子を見に来た、というわけだ。
誰かいないのか、と一階の広間に降りてみるものの、人の気配はない。今日は俺一人か、と胸中で呟き、2は窓から外を眺め……ただならぬ雰囲気を感じ取った。人々が、必死の形相で右往左往している。
「また、祭りでも始めたのか?」
事情がわからず、のんきに首をかしげる2。そこへ。
「お邪魔しま~す」
「へ!?」
声がして、ドアが開いた。顔を出したのは、件のゴスロリ少女・ミナである。唐突の訪問に、2が素っ頓狂な声を上げる。
「やっほー、久しぶり~」
ミナが、ひらひらと手を振る。2に冷たく拒絶されたことを、彼女はすっかり忘れているふうだった。あれからだいぶ日が経っているので、無理もないことだが。
「お前、まだいたのか?」
「この街、けっこう気に入っちゃって」
相も変わらずそっけない2に対し、ミナは笑顔で返す。彼女が何の目的でここに来たのかわからず、2は怪訝な表情をするが、己の疑問を解消することを優先させた。
「それより、外は何の騒ぎだ。お前、説明できるか?」
「うん。魔王の軍勢が攻めてくるんだって」
さらりと、とんでもないことを報告する、ミナ。2は、驚愕の声を上げた。
「はあ!?何でだよ」
「たぶん……報復かなあ?」
「……何か嫌な予感がするんだが。まあいい」
そう言うが早いか、2がすたすたと玄関に向かって歩き出す。彼に向かって、ミナがのんびりと尋ねる。
「どこ行くの?」
「決まってんだろ、魔王だかなんだか知らねえが、ここを破壊されると迷惑だ。帰ってもらう」
これ以上会話をするのも惜しいという風に、そっけなく返す、2。ミナが意味ありげに微笑していることに、彼は気づかなかった。
「いいこと教えてあげるよ。魔王は、巨大なワニの姿をしているんだってさ」
「ワニを探せばいいんだな?ありがとよ」
彼女に礼を言って、2は玄関から出て行った。蝙蝠のような翼を生やし、勢いよく飛び立つ。
「いってらっしゃ~い」
ひとが空を飛んだことに微塵も動揺せず、ミナが彼を送り出す。その顔は、実に楽しそうだった。
魔物の大軍の、本陣にあたる場所。金属鎧に身を固めたワニ魔王が、望遠鏡を片手にほくそ笑んでいた。
「ふふふ……ここまで、迎撃もなしか。腑抜けどもめ、思い知らせてくれる」
そこへ、鳥の外見を持つ獣人が空から降り立ち、報告する。
「間もなく、先発隊が目標に到達します!」
「よし。攻撃開始だ!!」
ワニ魔王の指揮の下、先発隊の魔物たちが一斉に攻撃態勢をとる。ブレスや攻撃魔法、投擲武器が、街の外壁に集中砲火を浴びせる。轟音と煙が、ナンナルの街を覆った。
「何……!?」
攻撃の第一陣が止み、ワニ魔王は驚愕した。攻撃目標である人間たちの街は、破壊の跡ひとつない。まるで、不可視の壁に弾かれたかのように、攻撃は霧散していた。
「ば、バカな!?」
予想外の事態に動揺する、ワニ魔王。さらに追い打ちをかけるように、部下が声を上げる。
「魔王様!あれを!」
「何だ!?」
「上空からものすごい速さで接近してくる者がいます!」
ワニ魔王は、空を仰ぎ見た。確かに、何者かがこちらに向かって近づいてきている。あわてて、魔王は部下を怒鳴りつける。
「何をやっている!撃ち落とせ!!」
「それが、攻撃が全て跳ね返され……ぐへっ!!」
話の途中で、部下は悲鳴を上げて吹っ飛んだ。周囲の喧騒をものともせずに、一人の青年が着地する。それは、戦場の、しかも敵地の中心にいるにはあまりに場違いな軽装をした、細身の青年だった。
「よっ……と」
緊張感のない声とともに、2は翼を畳む。
「な、な……」
「いたいた、ワニ野郎」
絶句し、硬直するワニ魔王。そんな彼を、嬉しそうに2は指さした。
「貴様、一体……」
「お前がこの軍のトップか?」
どもりつつの魔王の疑問に答えず、マイペースに問い返す、2。気を取り直し、ワニ魔王は身構えた。
「そ、その通りだ!我は、魔四天王のひとり!貴様たちに倒された同朋の仇、とらせてもらうぞ!」
「四天王?同朋?……何か、話が見えてきたぜ」
魔王の放つ殺気をものともせずに、2はぶつぶつと呟く。相手に合わせようという気は、微塵もないらしい。その巨体に見合った、物騒な装飾の戦斧をぎらつかせ、ワニ魔王は唸り声を上げた。
「ここまで単騎で突っ込んでくるとは、なかなか勇ましいやつだ。その心意気に免じて、一騎打ちを受けてやろう!」
「……つまり、悪いのはあいつらで、俺は関係ねえってことだな」
相変わらず、ワニ魔王を視界に入れることもせずに独白を述べ、2はうんうん、と頷く。魔王は、怪訝な表情で彼に問いかけた。
「どうした!?かかってこんのか!?」
「あー……悪ぃが、帰ってくれねえか?今、あいつらいねえんだわ」
「何?」
ようやく会話をする気になった2がしたのは、予想外にも程がある提案だった。ワニ魔王だけでなく、周囲の部下たちもざわめく。そんなことはおかまいなしに、彼は続けた。
「お前らの仲間のたぶん仇、今はあの街にいねえんだよ。今度あいつらが来たら教えてやるから、今日はもう帰れ」
諭すように、2が告げる。まるで、急用の際に遊びに来た相手に謝罪するかのような口ぶりに、さすがに怒りを感じてワニ魔王が吠えた。
「……ふざけるな!!こちらは精鋭を率いて来ているのだ!砦のひとつでも落としてやらねば気が済まん!」
「そう言われてもなあ……。ここは俺に免じて退いてくれよ。な?」
あくまでふざけた交渉を繰り返す、2。登場した時からそうだったが、戦意の欠片も感じられない。ワニ魔王は、彼のことを平和ボケした狂人だと判断した。獰猛な笑みを浮かべ、斧を構え直す。
「そうだな……手土産に、貴様の首をもらおうか!」
一気に距離を詰め、ワニ魔王は2の脳天に向かって斧を振り下ろした。巨体に似合わぬ俊敏な動きによる渾身の一撃は、しかし硬い音とともに阻まれる。
「な……!!」
魔王は、己の目を疑った。彼の戦斧を受け止めたのは、盾や剣ですらない。それは、刃の厚さよりも遥かに劣る、青年の細い片腕だった。
「てめえ、下手に出てりゃいい気になってんじゃねえぞ」
2が、ワニ魔王をじろりと睨む。斧と接している片腕には、傷一つついていない。周囲の困惑をよそに、2は腕を一振りする。斧の刃は、粉々に砕け散った。その衝撃に、ワニ魔王がたたらを踏む。魔物たちが騒然とする中、2はゆらり、と魔王に近づいた。
「めんどくせえの我慢して穏便に済まそうっていうこの俺の心遣いを無にするとは、命がいらねえらしいなあ?」
2の口調は、あくまで穏やかである。しかし、そこに怒気がはらんでいることは明白だった。背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、反射的に後ずさる、ワニ魔王。しかし、彼には奥の手があった。
「命がなくなるのは、貴様の方だ!!」
咆哮し、ワニ魔王は全身に力を込める。鎧が弾け飛び、魔王の筋肉が膨張する。めきめきと音を立てて、魔王は巨大化していった。魔物たちが、悲鳴を上げて散開する。
ワニ魔王は、十倍以上の大きさのワニへと変異していた。ただでさえ過剰だった2との体格差は、更に広がる。
「ふはははは!!丸呑みにしてくれる!!」
割れがねのような魔王の哄笑が、戦場に響き渡る。ちょっとした山ほどの大きさになった相手を、2はさしたる感情もなく見上げた。無言のまま、彼の姿がその場から掻き消える。
「へ?」
標的を見失い、魔王は周囲を見渡そうと首をひねり……次の瞬間、巨大な手によって鷲掴みにされた。わけがわからずじたばたともがく魔王を、手の主が睨み据える。禍々しい体色の、角を生やしたその怪物は、かなり顔つきが変わっているものの、先ほどまで目の前にいた青年の面影がある。2もまた姿を変えたのだとワニ魔王は悟った。
地獄中の悪魔や罪人たちを震え上がらせている魔王ルシファーの姿が、そこにあった。
「誰を丸呑みだぁ?地獄の奥底で噛み砕いてやろうか?あぁ?」
地の底からわき上がるような低い唸り声で、2が手の平サイズのワニを恫喝する。ワニ魔王が現在いる高度は、すでに遥か雲の上だ。
「…………」
ワニ魔王は沈黙し、
「すいませんでした」
数分の後、完全に戦意を喪失して、素直に謝った。
魔物の軍勢が接近していることに気づいた街の人々は、教会の地下に避難し、息を潜めていた。しかし、半日が経過したにもかかわらず、地上から破壊音の一つも聞こえてこない。不審に思い、勇気ある若者たちが偵察隊を組織し、教会の屋根に上る。彼らが目にしたのは、来たときと同様、土煙を上げて撤退していく魔物たちの姿だった。
「魔物の軍勢が、退いていくぞ!!」
「奇跡だ!」
若者たちは、手を取り合って歓声を上げた。すぐに地下の避難所に情報が伝わり、朗報は人々に知れ渡ることとなる。ある者は涙を流し、ある者は安堵のあまり気を失って倒れ込む。
「これは、神の奇跡か?」
呆然としながら、ひとりが神官に問う。神官が答える前に、他の誰かが話を遮った。
「いや、勇者様のおかげだ!勇者様が、魔物たちを退治してくれたに違いない!」
それは、何の根拠もない推測にすぎなかったが、かつて勇者の活躍により脅威から救われた(と思い込んでいる)人々は、彼の言葉を信じた。
「勇者様、ばんざーい!」
避難所に、人々の歓声が上がる。そして、彼らは先を争いながら、教会から飛び出した。建物の屋根に上って、魔物たちの様子を確認する者がいれば、広場で抱き合う恋人たちもいる。
かつて2に助けられた二人の子供たちもまた、その喜びの中にいた。秘密を共有するかのように彼らは顔を見合わせ、笑い合う。
「……兄ちゃん、ありがとう」
大人たちに聞こえないように、彼らはそっと、呟いた。
「……はあ……また、勇者かよ」
屋敷にこっそりと帰還した2は、外から聞こえる勇者を讃える声に、げんなりした顔をした。そんな彼を、ミナが出迎える。いつの間に用意したのか、手には液体が入ったグラスを持っていた。
「おかえり~、お疲れ様」
にっこり笑って、ミナは2にグラスを差し出す。それを受け取り、彼は中の液体を飲み干した。柑橘系のさわやかな香りを伴う冷たさが、喉を潤す。
「……驚かねえんだな」
「世界中を旅してるって言ったでしょ?色んな事があるよ」
「……そうかよ」
グラスを返しつつ、ぶっきらぼうに問う。彼が翼を生やして飛び立ったのを、ミナは目撃したはずだ。そして、魔物の軍勢を撤退させたことも。普通ならば、2に対して恐怖を抱いてもおかしくない状況だというのに、彼女の態度は変わらない。
「ま、今回みたいなのはさすがに初めて見たけどね」
グラスをテーブルに置きながら、ミナが笑みを漏らす。彼女が何も聞いてこないならば、こちらがあえて話す必要もないだろう。そう判断し、2は余計な説明はしないことにした。黒革のソファーに、どっかりと腰を下ろす。つられたように、ミナも向かいに座った。
「あのワニ野郎、仲間のかたき討ちに来たとか言ってやがった。お前、何か知ってるか?」
「詳しくは知らないけど……原因はわたしにあるかも」
「何したんだよ、お前」
テーブルに片肘をついて、ミナに尋ねる。さほど悪びれもせずに、彼女は答えた。
「あのふたりに頼まれて、あのワニの仲間の所在地の地図を渡しちゃったから」
「……つまりは、お前が悪いと」
2に半眼で睨まれ、ミナはあわてて両手を振る。
「わたしは情報を渡しただけだよ?どう使うかは本人次第だと思うけどなあ」
「タチ悪ぃな、お前」
ミナの無責任にもほどがある理屈に、2は苦笑した。彼女のような無自覚にトラブルを振りまくタイプは、地獄にいくらでもいる。そして、そう言った連中のことを、彼は嫌いではなかった。今までずっと仏頂面しか見せなかった2の笑顔に気を良くしたか、ミナの頬が緩む。しかし、次に彼女が口にしたのは、別の話題だった。
「魔四天王も、残りはあとひとりだね。どうする?」
「知らねえよ。勝手にすればいいだろ、俺の迷惑にならないところでな」
「君は好戦的じゃないんだね」
2がソファーに背を預け、足を組み直すのを見ながら、ミナは意外そうな顔をする。1や3のように、彼も魔王の居場所を自分に聞いてくると思ったのだ。魔四天王との全面対決を期待されていたのを感じとり、2は肩をすくめる。
「誰かれ構わずケンカ売ればいいってわけじゃねえだろうが。戦うのは本当に必要なときだけでいいんだよ」
「……なるほどね」
2の言葉に、ミナは感心したように相槌を打つ。彼女から視線を逸らし、2はここにいない二人のことを思った。胸に、ふつふつと怒りがわいてくる。
「それにしても、あいつら、よそに勝手にケンカ売りに行きやがって。おかげで俺まで巻き込まれたじゃねえか。今度会ったら、文句言ってやる」
恨みがましい目つきで、ぶつぶつと恨み言を言う2。ミナは、微笑ましそうに目を細めた。
「……君たち、仲いいよね」
「あぁ?どこがだよ」
「いや、仲いいって。わたし、ずっとひとりだったから、うらやましいよ」
ミナが、軽い口調で告げる。その仕草がどこか寂しげで、2は彼女に目を奪われた。何か言わなければいけない気がして、咄嗟に口を開く。
「あー……お前、図々しいっつうか馴れ馴れしいんだから、居場所くらいすぐ作れるだろ」
「あはは、そうかもね」
不器用な励ましに、ミナがからからと笑う。
ミナの孤独で、そのくせ変に人懐っこいところは3に似ている気がして、庇護欲をくすぐられる2だった。
そしてまた数日が経過した、ある日。3は、久方ぶりに異世界を訪れていた。魔方陣の光が止むと、目の前に見知った姿がある。
「よお」
自分がこちらを見ているのに気づいたのだろう。1が、軽く片手を上げる。
「やあ、久しぶり。ええと、最後に会ったのはいつだっけ」
3の問いに、1は天井を見上げて記憶を辿り、すぐにあきらめて首を振った。
「覚えてねえな。ずっと自分の世界で仕事してたからよ」
「君も?」
3が、驚いて聞き返す。頷いて、1はげんなりしたようにため息をついた。
「あの魔四天王とかいうやつがあまりに大したことなかったから、拍子抜けしちまってな」
「ああ……実は、私もなんだ」
嫌なことを思い出した、という風に、3もまた渋面になる。1は、意外そうに3を見た。あの日、ミナに地図をもらって3と別れて以降、彼が何をしていたかを知らなかったのだ。
「お前もあの女から情報もらったのか?で、どうだった」
「君と似たような感想だと思うよ。あの程度なら放っといてもいいかなって」
問われ、3は苦笑する。だよな、と1が同意した直後、バタン、と音がして、扉が乱暴に開いた。突然の侵入者に二人は一瞬身構えたものの、それが2であることにすぐ気づき、彼に声をかける。
「何だ、いたのかお前」
「久しぶりだね、元気だった?」
それぞれがマイペースに過ごしているとはいえ、久しぶりに三人が揃ったことを、1と3は素直に喜んでいる。だが、彼らの予想に反し、2の表情は硬いままだった。
「……お前ら」
「??」
2が、怒気をはらんだ声で低く唸る。わけがわからず、1と3はきょとんとした様子で、彼をまじまじと見つめた。そんな彼らに向かって、2が床を人差し指で指し示す。
「ちょっとそこ座れ」
「な、何だよ」
「え?どうして怒って……」
2の気迫に押され、3だけでなく1も困惑する。おどおどした態度でこちらの顔色をうかがう二人を睨み据え、2はもう一度、告げた。
「いいから座れ」
異世界の辺境の街・ナンナルの、更に郊外にある屋敷の一室。ここに、奇跡と言ってもいいほど珍しい光景があった。
地獄の王であり、悪魔たちの統率者である魔王・ルシファーが二人、板張りの床に正座させられている。彼らの前にいるのもまた、ルシファー。この、あまりに奇妙な状況を目の当たりにしたら、神ですらも面喰うであろう。当事者たちにとっては、どうでもいいことかもしれないが。
「お前らなあ……よそにケンカ売るのはいいけど中途半端に放置すんなよ!おかげでこの街、危うく滅びるところだったんだからな!」
腕組みをしながら、2が1と3を怒鳴りつける。自分たちの行動がそんな非常事態を招いたとは、夢にも思わなかったのだろう。1と3は、顔色を変えた。
「ええ!?」
「は!?何でだよ」
「お前らがケンカ売ったやつらの仲間が軍隊率いて攻めてきたんだよ」
不機嫌全開の態度で、2が事情を説明する。ようやく事態が飲みこめたのか、3は深々とため息をついた。
「ああ……報復かあ……そこまで考えてなかったなあ……」
申し訳なさそうに、3が俯く。彼としては、ほんの軽い気持ちで魔王を訪問したのだが、これほど恨みを買うとは思っていなかったのだ。
「で、その軍隊はどうしたんだ?」
3とは違い特に反省したふうもなく、1が尋ねる。街の外は、相変わらず平和なようだ。二、三日前までは例によってお祭り騒ぎだったのだが、今ここに来たばかりの彼がそれを知るはずもない。それに対し、2は淡々と答えた。
「大将と話をつけて帰らせた」
「君が何とかしてくれたんだ。すまない、迷惑をかけたね」
3が、殊勝な態度で2に頭を下げる。一方、1は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「帰らせただけかよ、温いな。調子に乗ってまた来るんじゃねえか?」
「誰が原因でそうなったと思ってんだよ」
じろりとにらまれ、1は言葉に詰まる。さすがに、己に落ち度があったことは自覚しているらしい。3が、眉をひそめて思案する。
「うーん……どうしようか。相手はここを知っているわけだよね?」
「今残ってるやつら、全員潰すか」
「それもひとつの方法かもね」
楽しそうに、1が拳を握りしめる。意外なことに、3もそれに同意した。彼らしからぬ過激な発言に、2が怪訝そうな顔をする。
「何だよお前ら、物騒だな……シーザーの野郎はともかく、お前までどうした」
気遣わしげに、2は3の顔を覗き込んだ。彼の方を見ようともせずに、3は淡々と告げる。
「自分に関係ないところでなら何をしていても見逃すけど、牙をむかれたら容赦する必要もないかなって」
「荒んでんなあ……仕事漬けで参ってんのか?そんなんじゃ、この先地獄の王なんて続けられねえぞ?力抜けよ」
からかうように、2は3の額を指で軽く小突いた。我に返ったように3は目を瞬かせ、ふっと笑みを漏らす。
「あぁ……確かに、生活ガラっと変わったから疲れてるかも」
神の計略により、人間界を何年も彷徨ったあげく、地獄の王になった3は、日々を激務に追われていた。神は、確かに地獄の元となる大地を創世したものの、後はルシファーである彼に丸投げだった。地獄の土地自体も不完全かつ劣悪な代物で、ところどころに次元のゆがみまで見受けられる。土地をつぶさに点検し、浄化していかなければ、とても人が住めるような状態ではなかった。
広大な地獄を浄化するのは、さすがの3でも骨が折れる作業だった。しかも、たびたび双子の弟であるミカエル……3ミカがやってきて、嫌味や言いがかりをつけてくる。3が荒むのも、無理からぬことだった。
「んだよ、だらしねえな」
1が、肩を落とす3をばっさりと切り捨てる。その表情に悪意はなく、むしろ彼を発奮させようとしているかのようだ。目を閉じ、3はゆっくりと深呼吸をする。忙しさにかまけて、我を失いそうになっていたことに、改めて気づかされた。
「……うん、大丈夫大丈夫。とりあえず、話でも聞きに行ってみようかな。どうするかは、その後でもいいし」
3が、幾分か落ち着いた表情で提案する。いつもの彼が戻ってきたことに、2は胸中で安堵した。
「だったらワニ魔王のところに行ってやれよ。お前らに会いに軍勢まで引きつれて攻めてきたんだし」
「そうだね」
2の意見に3は素直に頷いて、彼に尋ねた。
「それで、そのワニ魔王の名前、何だった?」
「…………あ」
当然と言えば当然な疑問に、2が硬直する。魔物の軍勢を追い返すのに手いっぱいで、肝心の大将の名前のことにまで考えが及ばなかったのだ。3が、首をかしげる。
「……ひょっとして、聞くの忘れた?」
「……わりぃ」
ばつが悪そうに、2が頬を掻く。3は、懐からミナにもらった地図を取り出した。
「ミナから教えてもらったのは名前と居場所だけだしなあ……どっちだろう」
「ワニっぽい名前の方だろ?」
「ワニっぽいってどんなんだよ」
地図を覗き込みつつ、1が突拍子もないことを言う。2は、即座にツッコミを入れた。
「えーと……シーザー、君が会ったのは誰?」
「おお、これだこれ」
3の問いに、1はナンナルから一番近い箇所を指さした。そこには、魔王ゲメーティス、と書かれている。
「……やっぱり一番近いところに行ったんだね。で、私は一番遠いところの魔王に会いに行った、と」
「じゃ、その二人は除外な」
2が、ゲメーティスとヒメルダの箇所を指で軽く弾く。地図から、二つの名前が消滅した。
「残ってんのは、エビルカイマンってのと」
「アガレスっていう魔王だね」
1と3が、交互に言う。そして、地図に視線を注いだまま、三人はしばし沈黙した。
「…………」
「……どっちが、ワニっぽい?」
3が、おもむろに口を開く。その表情は、真剣そのものだ。
「エビルカイマンの方が強そうじゃねえか?何となく」
「強い弱いは関係ねえだろ、どっちがワニっぽいかだ」
1の意見を、2が大真面目な顔で却下する。名前の響きでどちらがワニかを判断するのはかなり無理があることに、彼らは気づいていないようだ。
「ミナに聞いてみようか?まだこの街にいればいいけど」
ようやく建設的な意見を3が述べた、その時。2が、思い出したように手を打った。
「……あ!確か堕天使にアガレスってやつがいた気がする!」
「お、どんなやつだ?」
興味を惹かれたように、1が身を乗り出す。考え事が苦手な彼は、何でもいいから話が前に進めばそれでいいらしい。
「何かワニっぽかったぞ、たぶんだけどな」
「それだ!よし、行くぜ!」
「おう!」
2の、不確定きわまりない推測は、1によってあっさりと採用されてしまった。言うが早いか、1と2が屋敷の窓から飛び出して行く。
「え?確認とらないの?……しょうがないな……」
そんな彼らを見て、3は不安そうな顔をしたが、それでも二人を止めることなく後を追った。
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