L-Triangle!外伝①
- 2014/03/29
- 17:11
世界は、無数に存在する。
ひとつの世界に生きている者たちにとって、それはおそらくどうでもいいことだろう。なぜなら、よほどのことがない限り、次元を超えて、他の世界へ行くことなどありえないのだから。だが、それでも世界は他にも存在する。世界の数だけ、その世界を創造した神も存在するのだ。神その1、神その2、神その3……という具合に。
今回の話は、神の敵対勢力の総大将・ルシファーその2が属する世界から始まる。
ルシファーその2……略して2が住む世界は、天使や悪魔の影響力は皆無に等しい。世界の支配者は人間たちで、彼らが用いる科学技術こそが、世界を司る力だ。
かつて聖人たちが起こした奇跡は誇張による作り話。悪魔に憑りつかれた者はただの精神病患者。それが、この世界の常識である。
だが、いくら否定しようと、神や天使・悪魔は実在する。人間たちが彼らを認識するのは、たいていの場合は死後だ。善人は天界へ、悪人は地獄へ。
「……まったく……参ったなあ」
書斎机から顔を上げ、2の世界のミカエル……2ミカは、ため息をついた。山積みになった仕事は、まだまだ終わりそうにない。いや、本来ならば定時までには片付くはずだったのだが、突然、臨時の仕事が入ったため、そうも言っていられなくなった。
「本当に、悪魔のやつらは、忌々しいですよね!」
同室で仕事をしていた部下の天使が、2ミカのぼやきを耳ざとく聞きつけて同意する。
天使たちが激務に苦しんでいる原因は、彼らの天敵である悪魔にあった。
天界には数多くの仕事があるが、その中のひとつに、悪魔祓いというものがある。悪魔にとりつかれた人々の救済を生業とする者……エクソシストに力を貸すのが、天使たちの役割だ。
前述の臨時の仕事というのが、この悪魔祓いだった。悪魔と対峙したエクソシストが、2ミカに助けを求めたのである。すぐさま駆けつけ、彼は悪魔を退けたのだが、悪魔側の援軍としてやってきたのが、地獄の王であり、2ミカの実の兄である2だったのだ。
戦いの場に乱入してきた2は、手下の悪魔を保護し、姿を消した。
その間、弟である2ミカの方を一度たりとも見ることはなかった。
「ルシファーのやつ、いいところで邪魔に入って!」
「あいつがいるから、いつまでたっても悪魔たちを根絶できないんだ!」
「ルシファーがいる限り、人々は天国の門をくぐれない……」
部下たちの口から兄に対する罵詈雑言が飛び交う。天使は、基本的に人間たちの味方であり、彼らが清く正しく生きていくことを願っている。人間たちを誘惑して堕落させる悪魔は、天使にとっては忌まわしい存在だった。悪魔の根絶を願う天使も天界には少なくない。
憤る部下たちを2ミカはしばし無表情のままで静観し、
「……今日は、このへんで切り上げようか」
その場の空気を変えようと、あえて明るく言った。彼の内心を知らない部下たちは、素直に頭を下げ、退室していく。誰もいなくなったのを確認してから、2ミカは力なく椅子に体を預けた。背もたれがきしむのを気にせず、天井を見上げる。
「……本当に……悪魔は、罪深い存在……だよね」
無人の空間に向かってひとり、ごちる。
天使長である彼にとっても、悪魔祓いは負担が大きい仕事だ。ただし、それは体力的な話ではない。兄と戦うのも精神的にきついが、それよりつらいのが、兄の悪評が増えることだった。しかも、話を振られれば彼の立場上それに同意せざるを得ない。そのことにより、彼は深い自己嫌悪に陥るのだ。
「疲れていてもしょうがない、行こう、あの世界へ」
椅子から立ち上がり、2ミカは決意する。
天界での日々に疲れたとき、彼はこの世界とは別の世界……異世界へ行くことにしていた。そこは、もともとは兄が見つけた世界だったが、2ミカにとっても秘かな息抜き場所となっていた。
あの世界には、天界がない。兄を嫌う者もいない。
それどころか、あの世界の小さな街で、兄は勇者として崇められている。そのことを実感するのが、2ミカの何よりの癒しとなっていた。
次元を渡り、目立たないように気をつけて街から少し離れたところに降り立つ。彼は、すぐさま街の中心にある教会へ向かった。
「神官様、こんにちは」
礼拝堂で、顔見知りの神官に2ミカは声をかけた。初老の神官は、彼の姿を見て、相好を崩す。
「おお、あなたはいつぞやの……」
「また、この街の勇者様のお話しを聞きたくて。今、お時間よろしいですか?」
姿勢を正し、2ミカは神官に尋ねる。顔をほころばせ、神官は頷いた。
「ええ。この街の勇者様に興味を持っていただけるのは、とてもうれしいことです。
ところで、知っていますかな?勇者様が再びこの街をお救い下さったのですよ」
「え?それは本当ですか?詳しい話を教えてください!」
勇者に関する新たな情報に、2ミカは胸の高鳴りを隠せず神官の方へと身を乗り出した。礼儀正しい好青年が子どものように目を輝かせる様を好ましく思いつつ、神官は話し始める。
神官の話によると、街に魔物の軍勢が攻めてきたとき、勇者が追い返してくれた、とのことだった。どのようにして勇者が戦ったかはわからないが、街の一角から一陣の光が飛び出し、魔物の軍の中央に向かって一直線に降り立ったという。
「その後、魔物の軍勢は引き返していったのです。これは奇跡としか言いようがありません」
神官が誇らしげに断言し、礼拝堂奥の教壇へと視線を向ける。そこには、勇者の活躍を描いたタペストリーが展示されていた。
「そうですか……そんなことが……」
神官の話を、喜び半分疑惑半分で2ミカは聞いていた。前回の『勇者が起こした奇跡』とやらも、真実は兄と兄の友人が適当に暴れただけだったという。今回の件も、兄が適当に何かやらかし、結果的に街を救うことになっただけ、という可能性もある。いや、それどころか、兄ではなく別の誰かが勇者と勘違いされていることも十分にありうるのだ。
神官に礼を言って別れ、2ミカは周囲を見回す。他にも、魔物襲撃事件についての証言を集める必要性を感じた。
「誰か、真実を知っている人に会えないかな……」
彼の脳裏にまず浮かんだのは、兄の友人のふたりだった。彼らもまた、自分とは違う世界からやってきた者たちだということは調査済みである。ひとりは兄とともに暴れたという、いかにも悪魔、といった風貌の青年で、お世辞にも彼に好意的とは言えない。
「……フォースさん、ここに来ないかな」
この異世界で頼れる人物と言ったら、兄のもうひとりの友人の方だった。彼は天使である自分が見惚れるほどの美貌を持ち、聖人のごとき高貴さと包容力を兼ね備えていた。実際、彼は酔いつぶれた2ミカを介抱してくれた際、二日酔いや疲労を全て取り去る、という奇跡を起こしている。
その青年の正体が、別の世界のルシファーであり、フォースというのは偽名だということを2ミカは知らない。
「あれ、ミカ君?」
2ミカが声をかけられたのは、その時だった。振り返ると、黒髪の美青年が不思議そうに2ミカを見つめている。
2ミカは、神に感謝の祈りを捧げた。なぜなら、彼こそが2ミカがたった今思い浮かべた人物そのひとだったからである。
「フォースさん!!」
「久しぶりだね。どうしたの?」
ルシファーその3……略して3が、2ミカの眼前に立つ。うれしさのあまり、2ミカは彼の手をとった。
「フォースさん!お会いしたかったです!」
「!?」
2ミカのいつになく積極的な態度に、3は困惑し、言葉を失う。そんな彼らを、教会のシスターたちが少し離れたところから観察していた。彼女たちは3の親衛隊のようなものであり、彼に会うためにこの礼拝堂に来ていたのだ。
「あのひと、かっこいい……!」
シスターの一人が、うっとりと2ミカに見とれる。天使長だけあって、2ミカは整った容姿をしている。清楚で爽やかな所作に、柔らかそうな金色の髪。異国の王子だと言っても、誰も驚かないだろう。神聖な礼拝堂で見目麗しい青年二人が手を取り合う光景は、壮観だった。
「フォース様のお友達かしら?」
「すっごくうれしそうね、あの方」
「きっと、フォース様のことがお好きなのよ」
小声でささやき合う、シスター達。彼女らの熱い視線が突き刺さるのを感じて、3は顔を引きつらせる。
「ミ、ミカ君、手……」
「あ、すみません、うれしくて、つい……」
指摘されて我に返り、2ミカは手を離す。シスター達が残念そうな声を上げるが、3は気づかないふりをした。
「教会に、お祈りに来たのかい?」
その場の空気を変えるために、3は2ミカに尋ねた。言外に、この世界に何か用事か、と彼は聞いている。3にとっても、2ミカにとってもここは異世界である。目的がなければ、そうそう気楽に来られるところではない。
「いえ、実は……勇者様の話を聞きに」
「……ああ、そういうことか……」
照れくさそうに答える2ミカを見て、3は納得したように頷いた。2ミカが、兄である2と敵対しているものの、心の底では彼を慕っていることは知っている。
「それに……ここなら兄も来ませんし」
「うん、そうだね」
2ミカの補足に、3も同意する。天界が存在しない世界とは言え、悪魔という立場上、2が教会へ赴くことはまずない。2ミカがこの世界にたびたび来ていることは、2には内緒の話だった。
「それで、フォースさんに聞きたいことがあるんですけど、その……」
「わかってる。場所を変えようか」
言いよどむ2ミカの背中に、3は優しく手を添えた。そして、そのまま礼拝堂を後にする。彼らがいなくなった教会では、シスターたちが無邪気にうわさを広めることだろう。3は、軽い頭痛を感じた。
中央通りを、二人で並んで歩く。その間も、彼らは注目の的だった。何もない田舎街では、ほんの少しの変化も珍しい。
「あの……私、何かおかしいでしょうか」
行き交う人々の視線を感じ、居心地が悪そうに2ミカが俯く。そんな彼を、3は少しからかいたくなった。
「大丈夫だよ。君の美しさに、皆がみとれているだけだ」
「な、な、何言ってるんですか!変なこと言わないでください!」
赤面し、2ミカが唇をとがらせる。ごめん、と素直に謝り、3は楽しげに笑った。この青年の、ふとした時に見せる子供っぽい仕草が、3はとても好きだった。
「―――ああ、そう言えば」
2ミカのすねた顔をひとしきり堪能してから、思い出したように3は話を切り出す。
「ミカ君、君からもらった腕輪なんだけど……」
「あ、はい」
「どうやら、なくしてしまったみたいなんだ。元の世界に帰った時に、いくら探しても見つからなくて……本当に、ごめん」
すまなそうに、3が打ち明ける。以前、3は2ミカに彼の祈りがこめられた腕輪を贈られたことがあったのだ。
「そうですか……あの腕輪、少しはフォースさんのお役に立ちましたか?」
「うん。おかげで、敵に追い回されることはなくなったよ」
特に傷ついた様子もなく、2ミカは聞いてくる。実際のところ、腕輪の力が強すぎるあまり3は敵と接触することすらできなくなり、とばっちりで2が散々な目に遭わされたのだが、そのことを2ミカに話すつもりは3にはない。
「それなら、きっとあの腕輪は役目を終えて天に還ったのだと思います。フォースさんが謝ることなんてないですよ」
そう言って、2ミカは快活に微笑んだ。その様子が健気に感じられ、3は彼に対し、いつか埋め合わせをしようと心に誓った。
街中を少し歩いた後、二人は食堂に入った。飲み物を注文し、3はあらためて2ミカに問いかける。
「さて、聞きたいことって何だい?まあ、大体想像はつくけどね」
「はい。あの、つい最近、魔物の軍勢を追い返した勇者って……」
「うん。君のお兄さんのことだよ」
真剣な表情の2ミカに、3はあっさりと告げた。今まで抱えていた不安が一気に晴れていくような気がして、2ミカは目を輝かせる。
「ほ……本当ですか!?」
「彼は、魔物の軍勢がこの街に攻め入ろうとしたときに大将と交渉して、軍を退かせた。これは、まぎれもない事実だ」
「じゃあ、兄は、本当に英雄行為をしたんですね……!」
感激のあまり、2ミカは涙ぐむ。3がハンカチを差し出すが、あわてて断り、2ミカは手の甲でぐい、と水滴を拭った。
「彼には本当に助けられたよ。実を言うと、この街に魔物が攻めてきたのは私たちにも原因があってね」
「どういうことですか?」
2ミカに尋ねられ、3は俯く。その顔には、後悔の念が滲んでいた。
「魔物の軍の大将の仲間を倒すきっかけを作ってしまったんだ。それで、その報復として彼らは攻め込んできた。君のお兄さんがいなければ、この街は滅んでいたかもしれない。今思えば、軽率なことをした」
「そ、そんなことが……!」
驚いて、2ミカは息を呑んだ。窓の外には、どこにでもある素朴な街の風景が広がっている。この景色が、一歩間違えば跡形もなく失われていたのかと思うと、2ミカは背筋が寒くなった。
「この世界は平和だと思っていたんですが、物騒なこともあるんですね」
「しょっちゅう魔王が現れて勇者が退治している世界らしいからね」
渋面のまま、3が2ミカと同様、外の街並みへと目を向ける。彼もまた、2ミカと似たようなことを考えていた。ひとも、彼らが織り成す平和も、実に儚い。
「魔王に勇者……ゲームみたいな世界ですね」
「ゲーム?」
2ミカの呟きに、3が怪訝そうな顔をする。気に障るような発言をしたのだろうか、と2ミカは戸惑ったが、そうではないらしい。
「え?ゲーム……ご存じないですか?」
「スポーツの試合とか、そういう意味じゃなくて?」
「あ……その反応、兄さんみたいだ」
3の返答を聞いて、2ミカは笑みを漏らした。2は、ゲームやパソコンといった、単独で楽しむインドア系の趣味に興味がない。ひとりで遊ぶより友人と遊び、誰かに会いたくなったらすぐに会いに行くのが彼の信条だった。そのため、2は現代人の必需品である携帯電話すら持っていない。
「ゲームというのは、私たちの世界で流行している玩具の名前です」
「……へえ……」
感心したように、3が相槌を打つ。自分が知らない世界の話は、彼にとって興味深いものだった。
「仮想の世界で違う自分になって、戦ったり、スポーツをしたりできるんですよ」
「何だか、すごそうだね」
2ミカの説明に、3は曖昧な感想を述べた。正直なところ、2ミカの話だけでは『ゲーム』がどういうものなのか、明確なビジョンが浮かばない。
「ええ。夢中になりすぎて、日常生活に支障が出たり、仕事がおろそかになったりしてしまうひともいるくらいです。天界にも、実はそういうひとがいたりもして」
苦笑し、2ミカは運ばれてきた飲み物に口をつける。コーヒーっぽい色をしたその飲み物は、予想に反して甘かった。どちらかというと甘党の彼にとっては、むしろ嬉しい誤算である。
「そうか……。楽しすぎるのも怖いものだね」
「節度を守ることができれば、いい息抜きになるんですけどね。よろしければ、今度持ってきましょうか?」
「いや……私、仕事が忙しいから、そういうやめられなくなる系の娯楽は遠慮しておくよ」
2ミカの申し出を、3は辞退した。だいぶ落ち着いてきたものの、彼が統括する地獄は未だ完全な状態ではない。そして、自分が快楽に流されやすい性格だということは、よくわかっていた。
「その方がいいですね。とにかく、勇者になって魔王を倒す、っていうゲームもたくさんあるんですよ」
「英雄譚の主人公に、自分がなるって感じなのかな?」
「そんなふうに考えて大丈夫だと思います」
3の喩えを、2ミカは肯定した。自分の抱いているイメージがそれほどずれていないことに安堵しつつも、3は改めて自分の世界と彼の世界の違いを感じていた。
「君の世界は、色々な技術が発達していそうだね」
「フォースさんが住んでいる世界がどの程度発達しているかはわかりませんが……すごいですよ。人間が、空を飛ぶ乗り物に乗って海を超えたり、遠くの人と会話ができる機械があったりします。はたから見れば、かつては聖人のみが起こせた奇跡の数々を、誰もができるようになったかのようです」
2ミカが、誇らしげに語る。その総てを支持するわけではないが、彼は自分の世界の人間たちと、彼らが育んだ技術を愛していた。かつては、神の地位に近づこうとした者たちを罰したこともあったが、今は違う。ひとが生み出す奇跡もまた、尊いものだ。
「夢のような世界だな。きっと、みんな幸せだろうね」
3が、そんな2ミカを見て、眩しそうに目を細める。彼の世界は、天使と人間の距離は遥かに遠い。人間が天使と同等の力を手に入れれば、彼らは天使に管理されることも、一方的に断罪されることもなく自らの意志で歩めるだろう。それは、3にとっては理想の世界だった。
けれど、2ミカは悲しげに首を振る。
「ところが、そうでもないんですよね。戦争の技術も発達していて、世界を何回も滅ぼせるような兵器がいくつも存在していますし、環境もだいぶ破壊されています。貧富の差は今でもありますしね」
「それだけ色々なことができるようになっても、うまくいかないことがあるのか……」
3もまた、憂いを帯びた表情になる。誰もが仲良く、幸せに暮らせる世界を創るのは、容易ではないということか。意気消沈する3を慰めるように、2ミカは言葉を続けた。
「だからこそ、神の救いが必要なのだと思います。多くのことができるようになるということは、選択肢が増えるということで、一見自由に見えるんですが、道標がなければひとは迷う。そんな時、神の教えがあれば、迷わず正しい道を選択できる指針になるはずです」
「……そうだね。拠り所がないというのは、すごく不安だ。私も長い間あちこちを彷徨ったから、何となくわかるよ。あの頃は……とにかく、寂しかったな」
過去を思い出し、3の表情に暗い影が差す。彼はかつて、翼を奪われ、たったひとりで人間界を何年も放浪した経験があった。
「今は、どうなんですか?」
3の感情が伝染したのか、2ミカが不安げに聞いてくる。彼を安心させるように微笑んで、3は答えた。
「今は、そういう不安はないかな。ちゃんと帰るところができたから」
「良かった……」
心から安堵して、2ミカは胸をなで下ろす。初めて会った時から、3の美貌の中にどこか陰りがあるのを感じていたのだが、それが解消されたというのなら喜ばしいことだ。
「とは言え、寂しさはなかなか消えなくて、できる限り多くの人と触れあいたいと思ってしまう。独りでいるのは、嫌なんだ」
「フォースさん……」
「いい歳をした男が、情けないな」
自嘲するように、3が言葉を吐き出す。神に再び認められ、地獄の王になってからも、長きにわたり3の中に巣食っていた孤独は、彼の心に留まったままだった。独りでいると、昔に戻ったような気がして、怖くなる。彼が女遊びに興じているのも、他者の温もりを求めてのことだった。
しばし沈黙が続き、3が話題を変えようとしたとき、2ミカが立ち上がった。どうしたのかと動向を見守っていると、彼はこちらに向かってひざまずいた。呆気にとられる3の手をとり、2ミカは自らの胸に当てる。その面持ちは、普段とは違い、神々しさがあった。
「主が、貴方とともにいます。天使たちも、見えなくても貴方の傍にいます。貴方は独りではありません」
「……ミカ君?」
困惑し、3は2ミカの顔をまじまじと見つめる。青年の慈愛に満ちた眼差しが、まっすぐに彼に向けられていた。今の彼は、天使長ミカエルとして言葉を述べているのだということに、3はようやく気がついた。
「私も、いつも貴方の傍にいますから!だから、元気を出してください!ねっ」
いつもの調子に戻り、2ミカが3を励ます。異世界の天使長に気遣われては、3としてもいつまでも弱音を吐いてはいられない。
「……ありがとう」
礼を言い、3は顔をほころばせて笑った。それは、今までにないほど、晴れやかな笑顔だった。
2の世界。2ミカは、上機嫌で異世界から帰還した。自宅の寝室で、今日の出来事を思い返す。
「フォースさんのおかげで、何だか元気が出たな。明日も頑張ろう」
枕を抱きしめて、笑みを漏らす。今回の異世界訪問は、実に有益なものだった。兄の活躍を知ることができたし、3に再会できたうえにあんなに素敵な笑顔を見ることができたのだから。
(フォースさんの孤独が癒えて、心穏やかに過ごせる日が来ますように)
青年の陽光のような微笑を思い出し、2ミカは祈りを捧げるのだった。
2ミカが天界で幸せを噛みしめていたのとちょうど同じ頃。地獄では、悪魔たちが酒宴を開いていた。適当に作られた横断幕に、『天使に撃退されたマヌケを励ます会』とでかでかと書かれている。輪の中心にいるのは、当事者の悪魔だ。全身が傷だらけにも関わらず、元気に酒を飲んでいる。
「そーいうわけで、天使たちにまた撃退されちまって、痛えの何の」
赤ら顔で、悪魔が酒臭い息を吐く。かなり速いペースで飲んでいるのだろう、他の者たちより、酔いが進んでいるようだ。
「ま、次はうまくやれよ」
上座に座っていた2が、呆れたようにその悪魔をフォローする。天使たちに追いつめられて万事休すだった彼を助けたのは2である。ホントに助かりやした、と悪魔は頭を下げた。
「ルシファー様……俺ら、いつまで負けっぱなしなんスかね?」
情けない顔で、悪魔が傷をさすりながら2に問う。苦笑して、地獄の王は答えた。
「いつまでもじゃねえよ。努力次第でひっくり返せるさ。俺たちは、何も間違ったことはしてねえんだからな」
断言し、2は杯に口づける。王の言葉に勇気づけられ、悪魔は立ち上がった。
「うっし!天使の野郎!見返してやるからな!!」
拳を突き上げ、景気よく宣言する。それと同時に傷が痛み、悪魔はうめき声を漏らした。仲間たちが、爆笑する。
元気にじゃれ合う仲間たちを見守りつつ、2は回想する。今日の戦いの場に、弟がいたことを彼もちゃんと把握していた。2ミカがいたからこそ、2は自ら赴いたのだ。久しぶりに見た弟は、他の天使たちとともに自分たちを見下していた。相も変わらず、天界にのみ正義があると信じて疑っていないのだろう。2には、そう思えた。
「……和解なんて、ありえねえっつの」
鼻先で笑い飛ばし、2は小声で呟いた。
3の世界。帰還してすぐに、3は執務室で仕事を再開した。自分が不在の間に何か問題は起きなかったか、と報告書に目を通していると、ノックの音とともに、入室してくる者がいた。
「兄さん」
声をかけられ、3は苦虫を噛み潰したような顔で視線を上げる。来客は、彼の双子の弟であるミカエル……3ミカだった。
「また来たのかお前」
無愛想に、言葉を投げかける。2ミカに対する態度とは、天と地以上の差があった。この弟のせいで3は色々と酷い目に遭ったのだから、無理もないことである。しかも、相手は微塵も反省していない。そればかりか、兄である3を愛していると公言し、自分と同等かそれ以上に激務のはずなのに、たびたび彼の元を訪れてはちょっかいをかけてくる。ストーカーだ。
「そんな顔しなくてもいいじゃないか。書類を届けに来ただけだよ」
3の不機嫌を歯牙にもかけず、3ミカが封筒を差し出す。机に置け、と言っても聞かないので、3は渋々受け取った。
「部下にやらせろ。お前には他にすべきことがある」
言葉を交わすのが心底わずらわしい、という態度で、3は弟に忠告した。彼は地獄の王で、弟は天使長。敵対している、というほどではないにせよ、異なる勢力の長が、軽々しく面会するのは問題だ。
「どんな仕事でも、尊いものだよ」
これだけ邪険にされても、まだその場に居座る気でいるらしい。3ミカの手が、3の髪に触れた。つややかな黒髪を愛でるように梳いてくる。3のこめかみに、青筋が入った。弟の手を振り払い、天界に提出する予定だった適当な書類をかき集めて3ミカに押しつける。
「では、仕事をくれてやろう。ずいぶんと余裕があるみたいだからな」
両腕にかかる重みに、3ミカが顔を引きつらせた。書類の量は、相当なものだ。
「部下に任せず、全部ひとりで片付けろよ?ごまかしても、すぐにわかるからな」
「……酷いよ兄さん……」
「黙れ、ろくでなしが」
零下の視線とともに、3は弟の泣き言を斬り捨てた。書類を一瞥し、3ミカはため息をつく。ご丁寧にも、簡単に片付かない案件ばかりだ。
「兄さんがくれたものだから享受するけど……これはしばらく会いに来れないなあ」
「それでいい」
満足げに頷いて、3は部屋のドアを開けた。そして、出て行くようにと促す。一瞬の躊躇の後、何かを思いついたのか、3ミカはにやりと笑った。
「でも、忘れないでね。目に見えなくても、私の心はいつでも兄さんの傍にいるよ」
耳元に顔を近づけ、3ミカが囁きかける。耳朶を甘噛みされて、3は悲鳴を上げた。
「気持ち悪いんだよ!帰れ!!」
背中を蹴り飛ばし、3は弟を部屋から追い出した。ドアを閉めて、深々とため息をつく。
「……はあ……同じ言葉でも、相手が違うと、こうも印象が異なるんだな……」
ドアにもたれかかりながら、2に弟を交換してほしい、と3は心の底から思うのだった。
兄弟間の溝は、深い。
ひとつの世界に生きている者たちにとって、それはおそらくどうでもいいことだろう。なぜなら、よほどのことがない限り、次元を超えて、他の世界へ行くことなどありえないのだから。だが、それでも世界は他にも存在する。世界の数だけ、その世界を創造した神も存在するのだ。神その1、神その2、神その3……という具合に。
今回の話は、神の敵対勢力の総大将・ルシファーその2が属する世界から始まる。
ルシファーその2……略して2が住む世界は、天使や悪魔の影響力は皆無に等しい。世界の支配者は人間たちで、彼らが用いる科学技術こそが、世界を司る力だ。
かつて聖人たちが起こした奇跡は誇張による作り話。悪魔に憑りつかれた者はただの精神病患者。それが、この世界の常識である。
だが、いくら否定しようと、神や天使・悪魔は実在する。人間たちが彼らを認識するのは、たいていの場合は死後だ。善人は天界へ、悪人は地獄へ。
「……まったく……参ったなあ」
書斎机から顔を上げ、2の世界のミカエル……2ミカは、ため息をついた。山積みになった仕事は、まだまだ終わりそうにない。いや、本来ならば定時までには片付くはずだったのだが、突然、臨時の仕事が入ったため、そうも言っていられなくなった。
「本当に、悪魔のやつらは、忌々しいですよね!」
同室で仕事をしていた部下の天使が、2ミカのぼやきを耳ざとく聞きつけて同意する。
天使たちが激務に苦しんでいる原因は、彼らの天敵である悪魔にあった。
天界には数多くの仕事があるが、その中のひとつに、悪魔祓いというものがある。悪魔にとりつかれた人々の救済を生業とする者……エクソシストに力を貸すのが、天使たちの役割だ。
前述の臨時の仕事というのが、この悪魔祓いだった。悪魔と対峙したエクソシストが、2ミカに助けを求めたのである。すぐさま駆けつけ、彼は悪魔を退けたのだが、悪魔側の援軍としてやってきたのが、地獄の王であり、2ミカの実の兄である2だったのだ。
戦いの場に乱入してきた2は、手下の悪魔を保護し、姿を消した。
その間、弟である2ミカの方を一度たりとも見ることはなかった。
「ルシファーのやつ、いいところで邪魔に入って!」
「あいつがいるから、いつまでたっても悪魔たちを根絶できないんだ!」
「ルシファーがいる限り、人々は天国の門をくぐれない……」
部下たちの口から兄に対する罵詈雑言が飛び交う。天使は、基本的に人間たちの味方であり、彼らが清く正しく生きていくことを願っている。人間たちを誘惑して堕落させる悪魔は、天使にとっては忌まわしい存在だった。悪魔の根絶を願う天使も天界には少なくない。
憤る部下たちを2ミカはしばし無表情のままで静観し、
「……今日は、このへんで切り上げようか」
その場の空気を変えようと、あえて明るく言った。彼の内心を知らない部下たちは、素直に頭を下げ、退室していく。誰もいなくなったのを確認してから、2ミカは力なく椅子に体を預けた。背もたれがきしむのを気にせず、天井を見上げる。
「……本当に……悪魔は、罪深い存在……だよね」
無人の空間に向かってひとり、ごちる。
天使長である彼にとっても、悪魔祓いは負担が大きい仕事だ。ただし、それは体力的な話ではない。兄と戦うのも精神的にきついが、それよりつらいのが、兄の悪評が増えることだった。しかも、話を振られれば彼の立場上それに同意せざるを得ない。そのことにより、彼は深い自己嫌悪に陥るのだ。
「疲れていてもしょうがない、行こう、あの世界へ」
椅子から立ち上がり、2ミカは決意する。
天界での日々に疲れたとき、彼はこの世界とは別の世界……異世界へ行くことにしていた。そこは、もともとは兄が見つけた世界だったが、2ミカにとっても秘かな息抜き場所となっていた。
あの世界には、天界がない。兄を嫌う者もいない。
それどころか、あの世界の小さな街で、兄は勇者として崇められている。そのことを実感するのが、2ミカの何よりの癒しとなっていた。
次元を渡り、目立たないように気をつけて街から少し離れたところに降り立つ。彼は、すぐさま街の中心にある教会へ向かった。
「神官様、こんにちは」
礼拝堂で、顔見知りの神官に2ミカは声をかけた。初老の神官は、彼の姿を見て、相好を崩す。
「おお、あなたはいつぞやの……」
「また、この街の勇者様のお話しを聞きたくて。今、お時間よろしいですか?」
姿勢を正し、2ミカは神官に尋ねる。顔をほころばせ、神官は頷いた。
「ええ。この街の勇者様に興味を持っていただけるのは、とてもうれしいことです。
ところで、知っていますかな?勇者様が再びこの街をお救い下さったのですよ」
「え?それは本当ですか?詳しい話を教えてください!」
勇者に関する新たな情報に、2ミカは胸の高鳴りを隠せず神官の方へと身を乗り出した。礼儀正しい好青年が子どものように目を輝かせる様を好ましく思いつつ、神官は話し始める。
神官の話によると、街に魔物の軍勢が攻めてきたとき、勇者が追い返してくれた、とのことだった。どのようにして勇者が戦ったかはわからないが、街の一角から一陣の光が飛び出し、魔物の軍の中央に向かって一直線に降り立ったという。
「その後、魔物の軍勢は引き返していったのです。これは奇跡としか言いようがありません」
神官が誇らしげに断言し、礼拝堂奥の教壇へと視線を向ける。そこには、勇者の活躍を描いたタペストリーが展示されていた。
「そうですか……そんなことが……」
神官の話を、喜び半分疑惑半分で2ミカは聞いていた。前回の『勇者が起こした奇跡』とやらも、真実は兄と兄の友人が適当に暴れただけだったという。今回の件も、兄が適当に何かやらかし、結果的に街を救うことになっただけ、という可能性もある。いや、それどころか、兄ではなく別の誰かが勇者と勘違いされていることも十分にありうるのだ。
神官に礼を言って別れ、2ミカは周囲を見回す。他にも、魔物襲撃事件についての証言を集める必要性を感じた。
「誰か、真実を知っている人に会えないかな……」
彼の脳裏にまず浮かんだのは、兄の友人のふたりだった。彼らもまた、自分とは違う世界からやってきた者たちだということは調査済みである。ひとりは兄とともに暴れたという、いかにも悪魔、といった風貌の青年で、お世辞にも彼に好意的とは言えない。
「……フォースさん、ここに来ないかな」
この異世界で頼れる人物と言ったら、兄のもうひとりの友人の方だった。彼は天使である自分が見惚れるほどの美貌を持ち、聖人のごとき高貴さと包容力を兼ね備えていた。実際、彼は酔いつぶれた2ミカを介抱してくれた際、二日酔いや疲労を全て取り去る、という奇跡を起こしている。
その青年の正体が、別の世界のルシファーであり、フォースというのは偽名だということを2ミカは知らない。
「あれ、ミカ君?」
2ミカが声をかけられたのは、その時だった。振り返ると、黒髪の美青年が不思議そうに2ミカを見つめている。
2ミカは、神に感謝の祈りを捧げた。なぜなら、彼こそが2ミカがたった今思い浮かべた人物そのひとだったからである。
「フォースさん!!」
「久しぶりだね。どうしたの?」
ルシファーその3……略して3が、2ミカの眼前に立つ。うれしさのあまり、2ミカは彼の手をとった。
「フォースさん!お会いしたかったです!」
「!?」
2ミカのいつになく積極的な態度に、3は困惑し、言葉を失う。そんな彼らを、教会のシスターたちが少し離れたところから観察していた。彼女たちは3の親衛隊のようなものであり、彼に会うためにこの礼拝堂に来ていたのだ。
「あのひと、かっこいい……!」
シスターの一人が、うっとりと2ミカに見とれる。天使長だけあって、2ミカは整った容姿をしている。清楚で爽やかな所作に、柔らかそうな金色の髪。異国の王子だと言っても、誰も驚かないだろう。神聖な礼拝堂で見目麗しい青年二人が手を取り合う光景は、壮観だった。
「フォース様のお友達かしら?」
「すっごくうれしそうね、あの方」
「きっと、フォース様のことがお好きなのよ」
小声でささやき合う、シスター達。彼女らの熱い視線が突き刺さるのを感じて、3は顔を引きつらせる。
「ミ、ミカ君、手……」
「あ、すみません、うれしくて、つい……」
指摘されて我に返り、2ミカは手を離す。シスター達が残念そうな声を上げるが、3は気づかないふりをした。
「教会に、お祈りに来たのかい?」
その場の空気を変えるために、3は2ミカに尋ねた。言外に、この世界に何か用事か、と彼は聞いている。3にとっても、2ミカにとってもここは異世界である。目的がなければ、そうそう気楽に来られるところではない。
「いえ、実は……勇者様の話を聞きに」
「……ああ、そういうことか……」
照れくさそうに答える2ミカを見て、3は納得したように頷いた。2ミカが、兄である2と敵対しているものの、心の底では彼を慕っていることは知っている。
「それに……ここなら兄も来ませんし」
「うん、そうだね」
2ミカの補足に、3も同意する。天界が存在しない世界とは言え、悪魔という立場上、2が教会へ赴くことはまずない。2ミカがこの世界にたびたび来ていることは、2には内緒の話だった。
「それで、フォースさんに聞きたいことがあるんですけど、その……」
「わかってる。場所を変えようか」
言いよどむ2ミカの背中に、3は優しく手を添えた。そして、そのまま礼拝堂を後にする。彼らがいなくなった教会では、シスターたちが無邪気にうわさを広めることだろう。3は、軽い頭痛を感じた。
中央通りを、二人で並んで歩く。その間も、彼らは注目の的だった。何もない田舎街では、ほんの少しの変化も珍しい。
「あの……私、何かおかしいでしょうか」
行き交う人々の視線を感じ、居心地が悪そうに2ミカが俯く。そんな彼を、3は少しからかいたくなった。
「大丈夫だよ。君の美しさに、皆がみとれているだけだ」
「な、な、何言ってるんですか!変なこと言わないでください!」
赤面し、2ミカが唇をとがらせる。ごめん、と素直に謝り、3は楽しげに笑った。この青年の、ふとした時に見せる子供っぽい仕草が、3はとても好きだった。
「―――ああ、そう言えば」
2ミカのすねた顔をひとしきり堪能してから、思い出したように3は話を切り出す。
「ミカ君、君からもらった腕輪なんだけど……」
「あ、はい」
「どうやら、なくしてしまったみたいなんだ。元の世界に帰った時に、いくら探しても見つからなくて……本当に、ごめん」
すまなそうに、3が打ち明ける。以前、3は2ミカに彼の祈りがこめられた腕輪を贈られたことがあったのだ。
「そうですか……あの腕輪、少しはフォースさんのお役に立ちましたか?」
「うん。おかげで、敵に追い回されることはなくなったよ」
特に傷ついた様子もなく、2ミカは聞いてくる。実際のところ、腕輪の力が強すぎるあまり3は敵と接触することすらできなくなり、とばっちりで2が散々な目に遭わされたのだが、そのことを2ミカに話すつもりは3にはない。
「それなら、きっとあの腕輪は役目を終えて天に還ったのだと思います。フォースさんが謝ることなんてないですよ」
そう言って、2ミカは快活に微笑んだ。その様子が健気に感じられ、3は彼に対し、いつか埋め合わせをしようと心に誓った。
街中を少し歩いた後、二人は食堂に入った。飲み物を注文し、3はあらためて2ミカに問いかける。
「さて、聞きたいことって何だい?まあ、大体想像はつくけどね」
「はい。あの、つい最近、魔物の軍勢を追い返した勇者って……」
「うん。君のお兄さんのことだよ」
真剣な表情の2ミカに、3はあっさりと告げた。今まで抱えていた不安が一気に晴れていくような気がして、2ミカは目を輝かせる。
「ほ……本当ですか!?」
「彼は、魔物の軍勢がこの街に攻め入ろうとしたときに大将と交渉して、軍を退かせた。これは、まぎれもない事実だ」
「じゃあ、兄は、本当に英雄行為をしたんですね……!」
感激のあまり、2ミカは涙ぐむ。3がハンカチを差し出すが、あわてて断り、2ミカは手の甲でぐい、と水滴を拭った。
「彼には本当に助けられたよ。実を言うと、この街に魔物が攻めてきたのは私たちにも原因があってね」
「どういうことですか?」
2ミカに尋ねられ、3は俯く。その顔には、後悔の念が滲んでいた。
「魔物の軍の大将の仲間を倒すきっかけを作ってしまったんだ。それで、その報復として彼らは攻め込んできた。君のお兄さんがいなければ、この街は滅んでいたかもしれない。今思えば、軽率なことをした」
「そ、そんなことが……!」
驚いて、2ミカは息を呑んだ。窓の外には、どこにでもある素朴な街の風景が広がっている。この景色が、一歩間違えば跡形もなく失われていたのかと思うと、2ミカは背筋が寒くなった。
「この世界は平和だと思っていたんですが、物騒なこともあるんですね」
「しょっちゅう魔王が現れて勇者が退治している世界らしいからね」
渋面のまま、3が2ミカと同様、外の街並みへと目を向ける。彼もまた、2ミカと似たようなことを考えていた。ひとも、彼らが織り成す平和も、実に儚い。
「魔王に勇者……ゲームみたいな世界ですね」
「ゲーム?」
2ミカの呟きに、3が怪訝そうな顔をする。気に障るような発言をしたのだろうか、と2ミカは戸惑ったが、そうではないらしい。
「え?ゲーム……ご存じないですか?」
「スポーツの試合とか、そういう意味じゃなくて?」
「あ……その反応、兄さんみたいだ」
3の返答を聞いて、2ミカは笑みを漏らした。2は、ゲームやパソコンといった、単独で楽しむインドア系の趣味に興味がない。ひとりで遊ぶより友人と遊び、誰かに会いたくなったらすぐに会いに行くのが彼の信条だった。そのため、2は現代人の必需品である携帯電話すら持っていない。
「ゲームというのは、私たちの世界で流行している玩具の名前です」
「……へえ……」
感心したように、3が相槌を打つ。自分が知らない世界の話は、彼にとって興味深いものだった。
「仮想の世界で違う自分になって、戦ったり、スポーツをしたりできるんですよ」
「何だか、すごそうだね」
2ミカの説明に、3は曖昧な感想を述べた。正直なところ、2ミカの話だけでは『ゲーム』がどういうものなのか、明確なビジョンが浮かばない。
「ええ。夢中になりすぎて、日常生活に支障が出たり、仕事がおろそかになったりしてしまうひともいるくらいです。天界にも、実はそういうひとがいたりもして」
苦笑し、2ミカは運ばれてきた飲み物に口をつける。コーヒーっぽい色をしたその飲み物は、予想に反して甘かった。どちらかというと甘党の彼にとっては、むしろ嬉しい誤算である。
「そうか……。楽しすぎるのも怖いものだね」
「節度を守ることができれば、いい息抜きになるんですけどね。よろしければ、今度持ってきましょうか?」
「いや……私、仕事が忙しいから、そういうやめられなくなる系の娯楽は遠慮しておくよ」
2ミカの申し出を、3は辞退した。だいぶ落ち着いてきたものの、彼が統括する地獄は未だ完全な状態ではない。そして、自分が快楽に流されやすい性格だということは、よくわかっていた。
「その方がいいですね。とにかく、勇者になって魔王を倒す、っていうゲームもたくさんあるんですよ」
「英雄譚の主人公に、自分がなるって感じなのかな?」
「そんなふうに考えて大丈夫だと思います」
3の喩えを、2ミカは肯定した。自分の抱いているイメージがそれほどずれていないことに安堵しつつも、3は改めて自分の世界と彼の世界の違いを感じていた。
「君の世界は、色々な技術が発達していそうだね」
「フォースさんが住んでいる世界がどの程度発達しているかはわかりませんが……すごいですよ。人間が、空を飛ぶ乗り物に乗って海を超えたり、遠くの人と会話ができる機械があったりします。はたから見れば、かつては聖人のみが起こせた奇跡の数々を、誰もができるようになったかのようです」
2ミカが、誇らしげに語る。その総てを支持するわけではないが、彼は自分の世界の人間たちと、彼らが育んだ技術を愛していた。かつては、神の地位に近づこうとした者たちを罰したこともあったが、今は違う。ひとが生み出す奇跡もまた、尊いものだ。
「夢のような世界だな。きっと、みんな幸せだろうね」
3が、そんな2ミカを見て、眩しそうに目を細める。彼の世界は、天使と人間の距離は遥かに遠い。人間が天使と同等の力を手に入れれば、彼らは天使に管理されることも、一方的に断罪されることもなく自らの意志で歩めるだろう。それは、3にとっては理想の世界だった。
けれど、2ミカは悲しげに首を振る。
「ところが、そうでもないんですよね。戦争の技術も発達していて、世界を何回も滅ぼせるような兵器がいくつも存在していますし、環境もだいぶ破壊されています。貧富の差は今でもありますしね」
「それだけ色々なことができるようになっても、うまくいかないことがあるのか……」
3もまた、憂いを帯びた表情になる。誰もが仲良く、幸せに暮らせる世界を創るのは、容易ではないということか。意気消沈する3を慰めるように、2ミカは言葉を続けた。
「だからこそ、神の救いが必要なのだと思います。多くのことができるようになるということは、選択肢が増えるということで、一見自由に見えるんですが、道標がなければひとは迷う。そんな時、神の教えがあれば、迷わず正しい道を選択できる指針になるはずです」
「……そうだね。拠り所がないというのは、すごく不安だ。私も長い間あちこちを彷徨ったから、何となくわかるよ。あの頃は……とにかく、寂しかったな」
過去を思い出し、3の表情に暗い影が差す。彼はかつて、翼を奪われ、たったひとりで人間界を何年も放浪した経験があった。
「今は、どうなんですか?」
3の感情が伝染したのか、2ミカが不安げに聞いてくる。彼を安心させるように微笑んで、3は答えた。
「今は、そういう不安はないかな。ちゃんと帰るところができたから」
「良かった……」
心から安堵して、2ミカは胸をなで下ろす。初めて会った時から、3の美貌の中にどこか陰りがあるのを感じていたのだが、それが解消されたというのなら喜ばしいことだ。
「とは言え、寂しさはなかなか消えなくて、できる限り多くの人と触れあいたいと思ってしまう。独りでいるのは、嫌なんだ」
「フォースさん……」
「いい歳をした男が、情けないな」
自嘲するように、3が言葉を吐き出す。神に再び認められ、地獄の王になってからも、長きにわたり3の中に巣食っていた孤独は、彼の心に留まったままだった。独りでいると、昔に戻ったような気がして、怖くなる。彼が女遊びに興じているのも、他者の温もりを求めてのことだった。
しばし沈黙が続き、3が話題を変えようとしたとき、2ミカが立ち上がった。どうしたのかと動向を見守っていると、彼はこちらに向かってひざまずいた。呆気にとられる3の手をとり、2ミカは自らの胸に当てる。その面持ちは、普段とは違い、神々しさがあった。
「主が、貴方とともにいます。天使たちも、見えなくても貴方の傍にいます。貴方は独りではありません」
「……ミカ君?」
困惑し、3は2ミカの顔をまじまじと見つめる。青年の慈愛に満ちた眼差しが、まっすぐに彼に向けられていた。今の彼は、天使長ミカエルとして言葉を述べているのだということに、3はようやく気がついた。
「私も、いつも貴方の傍にいますから!だから、元気を出してください!ねっ」
いつもの調子に戻り、2ミカが3を励ます。異世界の天使長に気遣われては、3としてもいつまでも弱音を吐いてはいられない。
「……ありがとう」
礼を言い、3は顔をほころばせて笑った。それは、今までにないほど、晴れやかな笑顔だった。
2の世界。2ミカは、上機嫌で異世界から帰還した。自宅の寝室で、今日の出来事を思い返す。
「フォースさんのおかげで、何だか元気が出たな。明日も頑張ろう」
枕を抱きしめて、笑みを漏らす。今回の異世界訪問は、実に有益なものだった。兄の活躍を知ることができたし、3に再会できたうえにあんなに素敵な笑顔を見ることができたのだから。
(フォースさんの孤独が癒えて、心穏やかに過ごせる日が来ますように)
青年の陽光のような微笑を思い出し、2ミカは祈りを捧げるのだった。
2ミカが天界で幸せを噛みしめていたのとちょうど同じ頃。地獄では、悪魔たちが酒宴を開いていた。適当に作られた横断幕に、『天使に撃退されたマヌケを励ます会』とでかでかと書かれている。輪の中心にいるのは、当事者の悪魔だ。全身が傷だらけにも関わらず、元気に酒を飲んでいる。
「そーいうわけで、天使たちにまた撃退されちまって、痛えの何の」
赤ら顔で、悪魔が酒臭い息を吐く。かなり速いペースで飲んでいるのだろう、他の者たちより、酔いが進んでいるようだ。
「ま、次はうまくやれよ」
上座に座っていた2が、呆れたようにその悪魔をフォローする。天使たちに追いつめられて万事休すだった彼を助けたのは2である。ホントに助かりやした、と悪魔は頭を下げた。
「ルシファー様……俺ら、いつまで負けっぱなしなんスかね?」
情けない顔で、悪魔が傷をさすりながら2に問う。苦笑して、地獄の王は答えた。
「いつまでもじゃねえよ。努力次第でひっくり返せるさ。俺たちは、何も間違ったことはしてねえんだからな」
断言し、2は杯に口づける。王の言葉に勇気づけられ、悪魔は立ち上がった。
「うっし!天使の野郎!見返してやるからな!!」
拳を突き上げ、景気よく宣言する。それと同時に傷が痛み、悪魔はうめき声を漏らした。仲間たちが、爆笑する。
元気にじゃれ合う仲間たちを見守りつつ、2は回想する。今日の戦いの場に、弟がいたことを彼もちゃんと把握していた。2ミカがいたからこそ、2は自ら赴いたのだ。久しぶりに見た弟は、他の天使たちとともに自分たちを見下していた。相も変わらず、天界にのみ正義があると信じて疑っていないのだろう。2には、そう思えた。
「……和解なんて、ありえねえっつの」
鼻先で笑い飛ばし、2は小声で呟いた。
3の世界。帰還してすぐに、3は執務室で仕事を再開した。自分が不在の間に何か問題は起きなかったか、と報告書に目を通していると、ノックの音とともに、入室してくる者がいた。
「兄さん」
声をかけられ、3は苦虫を噛み潰したような顔で視線を上げる。来客は、彼の双子の弟であるミカエル……3ミカだった。
「また来たのかお前」
無愛想に、言葉を投げかける。2ミカに対する態度とは、天と地以上の差があった。この弟のせいで3は色々と酷い目に遭ったのだから、無理もないことである。しかも、相手は微塵も反省していない。そればかりか、兄である3を愛していると公言し、自分と同等かそれ以上に激務のはずなのに、たびたび彼の元を訪れてはちょっかいをかけてくる。ストーカーだ。
「そんな顔しなくてもいいじゃないか。書類を届けに来ただけだよ」
3の不機嫌を歯牙にもかけず、3ミカが封筒を差し出す。机に置け、と言っても聞かないので、3は渋々受け取った。
「部下にやらせろ。お前には他にすべきことがある」
言葉を交わすのが心底わずらわしい、という態度で、3は弟に忠告した。彼は地獄の王で、弟は天使長。敵対している、というほどではないにせよ、異なる勢力の長が、軽々しく面会するのは問題だ。
「どんな仕事でも、尊いものだよ」
これだけ邪険にされても、まだその場に居座る気でいるらしい。3ミカの手が、3の髪に触れた。つややかな黒髪を愛でるように梳いてくる。3のこめかみに、青筋が入った。弟の手を振り払い、天界に提出する予定だった適当な書類をかき集めて3ミカに押しつける。
「では、仕事をくれてやろう。ずいぶんと余裕があるみたいだからな」
両腕にかかる重みに、3ミカが顔を引きつらせた。書類の量は、相当なものだ。
「部下に任せず、全部ひとりで片付けろよ?ごまかしても、すぐにわかるからな」
「……酷いよ兄さん……」
「黙れ、ろくでなしが」
零下の視線とともに、3は弟の泣き言を斬り捨てた。書類を一瞥し、3ミカはため息をつく。ご丁寧にも、簡単に片付かない案件ばかりだ。
「兄さんがくれたものだから享受するけど……これはしばらく会いに来れないなあ」
「それでいい」
満足げに頷いて、3は部屋のドアを開けた。そして、出て行くようにと促す。一瞬の躊躇の後、何かを思いついたのか、3ミカはにやりと笑った。
「でも、忘れないでね。目に見えなくても、私の心はいつでも兄さんの傍にいるよ」
耳元に顔を近づけ、3ミカが囁きかける。耳朶を甘噛みされて、3は悲鳴を上げた。
「気持ち悪いんだよ!帰れ!!」
背中を蹴り飛ばし、3は弟を部屋から追い出した。ドアを閉めて、深々とため息をつく。
「……はあ……同じ言葉でも、相手が違うと、こうも印象が異なるんだな……」
ドアにもたれかかりながら、2に弟を交換してほしい、と3は心の底から思うのだった。
兄弟間の溝は、深い。
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